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生涯において、幾多の戦いを経験してきた室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)。剣豪としてその剣術の腕前を認められていた足利義輝の人生は、平穏とは無縁の波乱に満ちた生涯であり、歴史小説の題材となるほど壮絶な生き様でした。弱冠11歳という年齢で征夷大将軍の座を父から譲り受け、「永禄の変」において最期を迎えるまで、わずか30年という短い生涯を送った人物。父親の代から続いていた細川家の家督争いに巻き込まれてしまい、将軍家に生まれた家柄であったのにもかかわらず、何度も京都からの都落ちを余儀なくされました。そんな足利義輝の宿敵とも言われているのが「三好長慶」(みよしながよし)。この2人は長きに亘り、お互い敵対することとなります。そんな剣豪として名高い存在であった足利義輝についてご紹介しましょう。

わずか11歳という若さで征夷大将軍に任命

足利義輝」(あしかがよしてる)は、室町幕府12代将軍である「足利義晴」(あしかがよしはる)の嫡男として、京都の南禅寺で誕生し、幼名として「菊幢丸」(きくどうまる)という名前を授けられました。足利義輝の母は、正室の「慶寿院」(けいじゅいん)で、当時朝廷に仕えていた「近衛尚通」(このえひさみち)の娘にあたります。

将軍と正室との間に男子が生まれたのは、9代将軍であった「足利義尚」(あしかがよしひさ)以来のことでした。そのため、菊幢丸は生まれてすぐに外祖父であった近衛尚通の猶子(ゆうし:兄弟や親類の子を自分の子とすること)となります。

足利義輝の父であった足利義晴は、生まれてから1年も経たない菊幢丸を伴って御所へ年賀の参内(さんだい)をしたり、まだ7歳であった菊幢丸をたったひとりで参殿(さんでん)させたりしました。

この行動の裏には、菊幢丸が自分の後継者であるということを内外に知らしめる目的があったと言われています。

しかし、足利義晴の父である10代将軍「足利義澄」(あしかがよしずみ)が授かった男子は、足利義晴だけではなく、「足利義維」(あしかがよしつな)もいました。そして足利義晴は、将軍位継承権を狙っていた足利義維の存在を恐れていたのです。 

1546年(天文15年)、11歳になった菊幢丸は元服します。同時に、弱冠11歳にして父・足利義晴から征夷大将軍の座を譲位されることとなったのです。これには自分が健在であるうちに、息子・菊幢丸へ地位を譲って後見させたいという足利義晴の父としての考えがあったとされています。

晴れの舞台である将軍就任式は近江坂本の日吉神社(現在の日吉大社)で執り行われ、13代将軍・足利義輝が誕生しました。元服以降、菊幢丸は「足利義藤」(あしかがよしふじ)と名乗ることとなります。

足利義輝のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

細川家内乱に巻き込まれた将軍家

足利義晴は幼少のときに、播磨国(現在の兵庫県)守護の赤松氏のもとで育った一方、足利義維は有力守護大名・細川氏のもとで育ちました。

やがて細川家で内紛が起こり、細川京兆家の当主であった「細川高国」(ほそかわたかくに)と、足利義維を擁する「細川晴元」(ほそかわはるもと)が対立。そして、勝者となった細川高国は、足利義晴を招いて室町幕府12代将軍の座に据えます。

こうして細川家内の争いに巻き込まれてしまった足利義晴は、細川晴元と対立する関係に陥ってしまったのです。

細川晴元と細川高国の対立はその後も度々続いていたのですが、やがてこの争いは細川晴元側に軍配が上がり、細川高国は捕えられて自害へと追い込まれます。これにより、細川家内の実権は、細川晴元が握ることとなりました。

これを受けて、足利義晴から将軍の地位を譲り受けていた足利義輝も細川晴元との和睦を図ったため、両者の対立が解消。これまで細川晴元との戦で敗れるたびに近江坂本に逃れていた足利義輝でしたが、1548年(天文17年)に京都へと帰還することができました。

しかし、細川家内の権力闘争は収まることなく、細川高国の養子であった「細川氏綱」(ほそかわうじつな)が、打倒・細川晴元を掲げて挙兵。このとき細川晴元の重臣であった「三好長慶」が裏切り、細川氏綱側へと付いたのです。

三好長慶_3
三好長慶

これをきっかけに敗れてしまった細川晴元は京都を追われ、同時に将軍であった足利義輝もまた近江に逃れることになります。足利義輝が京都に戻ってから、わずか1年あまりの出来事でした。

翌年の1550年(天文19年)には、足利義晴が病で倒れてしまい、帰らぬ人となってしまいます。直後に足利義輝は、三好長慶を討つために築いていた京都の中尾城へと入城し、三好軍を迎え撃ちますが、戦局が好転しないまま城を捨て、近江への撤退を余儀なくされました。

さらにその翌年の1551年(天文20年)には、信頼を寄せていた部下の「伊勢貞孝」(いせさだたか:足利義晴に仕えていた人物)が反旗を翻し、三好側に寝返ったのです。そのため足利義輝は、さらに苦難の晩年を過ごすこととなります。

永禄の変で迎えることになった最期

1552年(天文21年)、三好長慶との間に和睦を成立させた足利義輝は京都へ戻りますが、すぐにまた決裂。結局この対立に敗れてしまい、また近江へ舞い戻ることになります。

その後、幕府の権力復活を目指して諸国の戦国大名との交流に力を入れ、諸国の大名間で起きた紛争の調停や和睦の仲介を積極的に行ったのです。

諸国の大名にいかに将軍が重要な存在であるかを再認識させて、大名からの支持を得ることで三好長慶が容易に手出しをできないようにするのが狙いでした。

そうした活動の成果もあって、1558年(弘治4年/永禄元年)には、三好長慶との和議を成立させ、5年ぶりに京都へ戻りますが、それでも三好長慶の権勢は続いたままでした。

しかし、1564年(永禄7年)、三好長慶が病死したことをきっかけとして、足利義輝は幕府権力の復活に向け再び動き出します。これを良しとしなかったのが三好長慶の寵臣であった「松永久秀」(まつながひさひで)と「三好三人衆」です。

なお、三好三人衆とは、「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしそうい)、「岩成友通」(いわなりともみち)という三好氏の重臣であった3人のことを指します。

三好三人衆は足利義維と組み、その嫡男である「足利義栄」(あしかがよしひで)を新しい将軍にしようと企て朝廷に掛け合いますが、朝廷は耳を貸しませんでした。そこで将軍への直訴を大義として掲げ、1565年(永禄8年)、約10,000の軍勢を率いて二条御所に侵入します。この武力による介入事件が永禄の変です。

足利義輝は自ら薙刀(なぎなた)を振るい奮戦しますが、最後は一斉に襲い掛かられてしまい討死となりました。

剣豪として活躍したという記録

足利義輝は、剣聖と称された「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)の教えを受けた直弟子として有名です。奥義のひとつである「一之太刀」(いちのたち)を伝授されたという説もあることから、大変武術に優れた人物だったと言われています。

塚原卜伝と足利義輝は、三好長慶と対立し、琵琶湖の北西にある朽木谷(くつきだに:現在の滋賀県高島市)に逃れていたときに、廻国(かいこく:諸国をめぐり歩くこと)修行中だった塚原卜伝の一団が足利義輝を訪ねてきたことをきっかけに出会いました。

そこで足利義輝は、塚原卜伝から剣術を学びます。剣術以外にも「最大の敵は己の内にあり」という、自分の心の弱さに打ち勝つことが大事だとする心のあり方を学びました。

このような心身ともに鍛える修練をこなしていたことが、剣豪と呼ばれるようになった理由と考えられています。

「ルイス・フロイス」の「日本史」には、「足利義輝は自分で薙刀を持って戦いに参加し、その技量は目をみはるほどの腕前があった。その後は薙刀を捨てて敵に接近し、今度は刀を振り回して戦った」といった記述が残されているほどです。

また、この他にも足利義輝が剣豪であったと記述されている資料はいくつも残っているのです。

心の弱さに打ち勝つことこそ剣豪たるゆえん

わずか30年という短い年月で人生の幕を閉じた足利義輝は、波乱万丈な人生を送りました。その短い生涯の中で、数多くの良き出会いがあったことも事実。そのなかのひとつが、剣聖と言われたことで有名な塚原卜伝との出会いなのです。

足利義輝は、征夷大将軍という地位にありながら、自ら武器を取り戦闘した人物として極めて稀な存在です。有力な守護大名の勢力が増して、衰退期となっていた室町幕府の将軍に就いた足利義輝の生涯は、波乱にみちた苦難の人生となってしまいました。

幾度も京都から落ちのびざるを得なかった足利義輝でしたが、それでも再起をかけて精力的に活動できたのは、剣術で培った心身の強さがあったからです。

剣豪と呼ばれるまでの腕前を誇った将軍足利義輝の生涯には、ひとりの武人としての誇り高い志を見て取ることができます。

【関連サイト】
足利義輝 三好長慶 松永久秀