真田幸村_thumb

2度に亘る「大坂の陣」で徳川家康を窮地に追い込んだことで知られる「真田幸村」(本名・真田信繁)は、残された資料の少なさゆえに、その人生の大半が謎に包まれている人物です。故郷を守るために上杉家で人質として過ごしたあと、大坂の陣に招集され、大坂夏の陣で志半ばに命を落とした真田幸村。実は逃げ延びた先で新たな人生を歩んだという生存説も存在しています。真田幸村の生涯を振り返りながら、言い伝えと共に各地に残されている墓の謎について迫っていきましょう。

人質として過ごした青年時代

戦国時代における真田家の歴史は、「真田幸村」(真田信繁)の祖父にあたる「真田幸隆」(さなだゆきたか)が、東信濃方面の制圧に乗り出した武田信玄の配下として武功を上げた褒美に領地を与えられたことから始まります。

そのあとを継いだ「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、仕えていた武田家の滅亡後も一族の故郷である真田郷を守ろうと策を講じ続けました。その結果、1年の間で織田信長から北条氏政、そして徳川家康と次々に主を変えることとなり、「表裏比興」(ひょうりひきょう)の者と周囲から称えられ、また蔑まれることもあったのです。

真田昌幸は里を守るために、1585年(天正13年)6月、息子である19歳の真田幸村を「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)のもとに人質として差し出しました。

以後、真田幸村は上杉家豊臣家で人質としての生活を余儀なくされ、父・真田昌幸の影に隠れた存在として、「関ヶ原の戦い」まで世間に知られる機会はありませんでした。

真田幸村のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

日本一の兵と名を馳せた最初で最後の活躍!

真田幸村の武名が突如世に知れ渡ったのは、「大坂の陣」での活躍がきっかけです。

「大坂城」(大阪城)の弱点を守るために建てた「真田丸」にて大活躍した大坂冬の陣。徳川家康本陣に3度も襲い掛かり、窮地に陥れた大坂夏の陣。これらの活躍により、真田幸村の名が轟くようになりました。

人質としての生活が長く、自分の実力を発揮する場所を求めていた真田幸村は、この戦いに賭けていたのです。刺し違えてでも徳川家康を倒し、戦況の行方を味方に託すことを選んだ真田幸村は、自ら敵陣に切り込んで戦う内に手傷を負ってしまいました。

そして、安井天神近くの畔でわずかな兵と休憩を取っていたところを急襲され、真田幸村と知らずに槍を刺した「西尾宗次」(にしおむねつぐ)の手によって討ち取られたことにより、49年の生涯を終えたのです。

この命懸けで戦い抜いた真田幸村の活躍は、初代薩摩藩主・「島津忠恒」(しまずただつね)により「真田日本一の兵」(さなだひのもといちのつわもの)と称えられました。

また真田幸村により3度も窮地に立たされ、その実力を肌で感じていた徳川家康は、真田幸村の最期を意気揚々と語る西尾宗次に対して、「真田幸村ほどの者が、西尾程度の武将に倒されるわけがない」と一喝したと言われています。

真田幸村は生きていた!?

真田幸村にまつわる様々な伝説のひとつに、「7人の影武者伝説」があります。津藩・藤堂家の記録「元和先鋒録」(げんなせんぽうろく)には、真田幸村が戦場のそこかしこに現れて奮闘しては、敵を翻弄する様子が記されているのです。

他にも江戸時代の軍談である「真田三代記」に、真田幸村隊は7人の武者に真田幸村と同じ出で立ちをさせ、それぞれに鉄砲隊と家臣100人を授けておいたということが記されており、影武者を務めた7人の名前も残されていました。

また、真田幸村の死を確認するために行われた首実検(くびじっけん:討ち取った首が本当に本人か、顔を知っている者に確認させること)で、叔父にあたる「真田信尹」(さなだのぶただ)が「これが真田幸村の首だ」と言い切ることができず、真田幸村の死が確実と言えない状況になってしまいました。

これらのことから、影武者の首だったのではないか?どこかで生きているのではないか?という疑惑が残り、生存説へと繋がっていくのです。

伝説と共に残された墓の数々

大坂夏の陣のあとすぐ、京では「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」という童歌が流行しました。この童歌が指し示すように、真田幸村は「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を連れて薩摩へと落ち延びたという説が古くからささやかれています。

当時逃亡の手筈を整えたとされる薩摩藩は、江戸時代の幕藩体制下においても独立国のような存在であったため、幕府でさえも簡単には手を出せない場所でした。

また、イギリス東インド会社にあてた手紙のなかには「豊臣秀頼が薩摩か琉球に逃れた」という噂があることが報告されています。

そして、鹿児島県南九州市頴娃町(かごしまけんみなみきゅうしゅうしえいちょう)の雪丸(ゆきまる)地区には、1615年(慶長20年/元和元年)5月に、大坂夏の陣のあと、豊臣秀頼や真田幸村、「木村重成」(きむらしげなり)などをはじめとする1,000余人の残党が逃げてきたという内容が郷土史に残されていました。

真田幸村はこの地で姓名を「芦塚左衛門」と改め、土地の百姓娘との間に設けた子どもの子孫が、幕末になって真江田(まえだ)姓を名乗ったとも伝わっています。

166_六文銭
六文銭

さらに、真江田家の墓には、真田家の家紋「六文銭」が刻まれているのです。この「雪丸」という地名も、真田幸村の名前に由来すると言われており、この場所には真田幸村の墓と伝わる場所も存在しています。

他にも、島津家が江戸幕府に従うようになると、真田幸村は娘の嫁ぎ先を頼って秋田に移り住み、その地で75歳まで暮らしたという話も残されているのです。実際に、秋田県大館市にあるお寺「一心院」には、真田幸村と嫡男として伝わる「真田大助」の墓が残されています。

大坂の陣で生涯を終えた真田幸村を弔うための供養墓や供養塔も各地に数多く残されており、どれが真田幸村の本当の墓なのか?という謎は今も解明されないままとなっているのです。

当時、庶民のなかには、反徳川の人達も大勢いました。その人達からすれば、真田幸村の存在は、徳川家に対して立ち向かってくれるヒーローのような存在だったのです。しかも日本人は「判官びいき」という言葉もあるほど、弱い者を応援したい気質。

この判官びいきと真田幸村の姿が重なった結果、「真田幸村はまだ生きている!」と信じたい人々によって生存説が後押しされたのではないかとも言われています。

戦国時代が生んだ悲劇の英雄・真田幸村

真田幸村の半生は、お世辞にも恵まれたものではありませんでした。戦国時代を代表する兵法家の真田家に生まれた真田幸村は、やがて人質として上杉家や豊臣家といった名家で過ごした経験が実を結び、優れた武将へと成長していきます。

そして、迎えた大坂の陣では真田丸で徳川勢の猛攻を撃退し、さらには徳川家康の首まであと一歩に迫る大活躍を見せたのです。

大坂夏の陣で華々しく散った真田幸村でしたが、影武者の存在、首実検で本人だと断言されなかったこと、反徳川派の庶民達にとっては徳川家(幕府)に反旗を翻す英雄のような存在だったことから、生存説がささやかれるようになりました。

そうして今でも、全国各地に存在する墓や供養塔の謎はいまだに解明されないまま、戦国ロマンとして語り継がれているのです。

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