十八代目中村勘三郎(故)

歌舞伎役者の苗字として、「市川」と並びよく耳にするのが、「中村」ではないでしょうか。屋号も苗字も同じ「中村屋」の「中村勘三郎」(なかむらかんざぶろう)家、「播磨屋」(はりまや)を屋号とする「中村吉右衛門」(なかむらきちえもん)家、「成駒屋」が屋号で上方歌舞伎の総本山である「中村鴈治郎」(なかむらがんじろう)家、そして同じく「成駒屋」(なりこまや)を屋号とし、勘三郎系と富十郎系を除くすべての中村家のルーツと言われる「中村歌右衛門」(なかむらうたえもん)家など、歌舞伎の代表的な一門のなかにはズラリと中村が並びます。その中から、一時代を築いた歌舞伎役者と、現在の歌舞伎界を引っ張る立場の2人をご紹介します。

十八代目中村勘三郎

「昭和から平成の男役、立役の頂点は、やはりこの人」と言われるのが、残念ながら2012年(平成24年)に57歳という若さで病気により亡くなってしまった、十八代目中村勘三郎(1955-2012年)。華があり芸がある「スーパー役者」という言葉がピッタリだと称賛される歌舞伎役者です。

芸は観客と一緒に作っていくもの。平成中村座の立ち上げ

十八代目中村勘三郎が公演を打つと、ワッとお客さまが集まる。注目され、みんなに支えられ、そして喜んでもらえる。なぜそうだったか、その理由の一番は、とにかくお客さまを大事にしたこと。自分を観に来てくれた観客一人ひとりを大事にし、その人達にリアクションをしながら演じ、歌舞伎を作っていったと言われています。

それを分かりやすく具体的な姿で見せたのが、東京での浅草の隅田公園内に「平成中村座」と名付けた江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営し、そこで歌舞伎を興行したこと。

実は、この近代歌舞伎史上、誰も考えなかった取り組みのそもそもの発想は、十八代目中村勘三郎がまだ高校生の頃、当時のブームだったテント小屋でのアンダーグラウンド演劇を観に行った際、この演技者と観客がひとつになっている光景こそ、江戸の歌舞伎の再現ではないかと感じたことだと言われています。

十八代目中村勘三郎が2000年(平成12年)にスタートさせた平成中村座は、東京にとどまらず大阪や名古屋、さらには日本を飛び出し海外でも公演を行い、各地で人々を魅了しました。

いち早く取り組んだ現代演劇人とのコラボ

しかし本来、このようなものを役者が陣頭指揮を執り作ろうとしても、実現させるのは至難の業。それを可能にしたのが、「いつも中村勘三郎が観られる芝居小屋が欲しい」という観客側の熱い思いだったと言われています。

十八代目中村勘三郎は、早くから渡辺えりや野田秀樹、串田和美といった現代劇の劇作家・演出家らと組み、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に精力的に取り組み、「勘三郎を観たい」という思いをどんどん醸成させていったのです。

それに後押しされる形で多方面からの協力を得て場所を確保し、そこに専門家も自然と集うような流れが生まれ、知恵を出し合って創り上げていきました。

「のりちゃん」として愛された十八代目中村勘三郎

十八代目中村勘三郎は、2005年(平成17年)にその名跡を襲名しますが、子役時代から46年間もの長きにわたり名乗った五代目「中村勘九郎」(なかむらかんくろう)時代から、その愛されキャラは群を抜いていました。本名の「波野哲明」(なみののりあき)から「のりちゃん」という愛称で呼ばれることも度々あったそう。

十八代目中村勘三郎は、一般的なイケメンのイメージとは違うものの、男っぷりの良さとチャーミングさを併せ持った人で、「あらゆる女性がかしづいた」と伝説的に語られているほど。

しかし、十八代目中村勘三郎の心には妻の好江さん(七代目中村芝翫[なかむらしかん]の娘)ただひとりだったと言われています。

六代目中村勘九郎さんと二代目中村七之助さん

六代目中村勘九郎(右)と二代目中村七之助(左)
六代目中村勘九郎さん(右)と二代目中村七之助さん(左)

この十八代目中村勘三郎の息子が、六代目「中村勘九郎」さんと二代目「中村七之助」(なかむらしちのすけ)さんの兄弟です。

兄の六代目中村勘九郎さんは、父から受け継いだしっかりとした芸の骨格があり、登場したとたんに目を引く明るさとやわらかみが特徴。NHKの大河ドラマ「いだてん」では主役を務めました。

一方、弟の二代目中村七之助さんは、歌舞伎役者の妖しさ、危なさが何とも言えず美しく、女形としての資質が高く評価されています。当代一の女形「坂東玉三郎」(ばんどうたまさぶろう)の跡を継ぐのは、二代目中村七之助さんではないかとも言われています。

二代目中村獅童さん

二代目中村獅童
二代目中村獅童さん

現在の二代目中村獅童(なかむらしどう:1972年[昭和47年]生まれ)さんは、歌舞伎以外での活躍も目立つ歌舞伎役者ですが、本業である歌舞伎においても「古典から創作劇まで、いろいろな分野をキチっとこなす味のある良い役者になった」と評価を受ける、今最も目が離せない歌舞伎役者のひとりです。

歌舞伎の女名形である三代目「中村時蔵」(なかむらときぞう:1895-1959年)を祖父に持ち、紛れもない立派な歌舞伎役者の血筋の生まれながら、いわゆる梨園(りえん)の御曹司ではありません。まずは、なぜそうなのかを簡単に紹介しましょう。

歌舞伎界の由緒ある血統に生まれながらも御曹司ではない理由

歌舞伎界から映画界に転じ、往年の映画スターのひとりと言われる「萬屋錦之助」(よろずやきんのすけ:1932-1997年)。彼が「中村錦之助」(なかむらきんのすけ)から改名した際に、屋号を「播磨屋」(はりまや)から「萬屋」に変更。現在の中村獅童さんは萬屋一門のひとりで、萬屋錦之助の甥にあたります。

その萬屋錦之助の兄・初代中村獅童が、現在の中村獅童さんの父で、十八代目中村勘三郎(2012年没[平成24年])とは従兄弟(いとこ)の間柄。

しかし、その父は10代前半で歌舞伎役者を廃業しています。それにはこんな経緯がありました。

舞台稽古をしているときに、ある大幹部(幹部を統率する役職についている人物)の歌舞伎役者から弟の萬屋錦之助(当時・中村錦之助)が頭ごなしに怒られ、弟を思うあまりその理不尽さにカッとなった初代中村獅童は、その大幹部めがけてかつら(一説にはかつらを着けるときに頭髪を隠すための布)を投げ付け、「俺がやめる!」という言葉を残し帰宅してしまったそう。

まだ子どもと言える年齢でしたが、誰がとりなしても辞めるという意志を貫き続け、二度と歌舞伎の世界に戻らなかったのです。そして普通に学校生活を送り、外資系の銀行に就職し結婚。そのため、二代目中村獅童さんは、一般的なサラリーマン家庭に生まれたというわけです。

ちなみに、父はその後、俳優転向した萬屋錦之助と「中村嘉葎雄」(なかむらかつお)の2人の弟のために東映へ転職し、プロデューサーとして弟達を支えました。

そんな父は、一人息子に歌舞伎をやらせようという思いはなかったとか。では、どういったきっかけで二代目中村獅童さんは歌舞伎の世界へと入ったのでしょう。それは、中村獅童さん自身が「歌舞伎をやりたい」と祖母(三代目中村時蔵夫人)に頼んだのです。

二代目中村獅童さんが3、4歳のときに祖母に連れられて初めて歌舞伎の舞台を観たとき、大きな太刀などで立ち回りをする歌舞伎役者達の姿にワクワクが止まらなかったのだそう。

それは「仮面ライダー」や「ウルトラマン」といったヒーローに憧れるのと同じような感覚だったと、中村獅童さんは当時を振り返り、語っています。

付き人は名物おっかさん

6歳から日本舞踊を習い始めた中村獅童さんは、1981年(昭和56年)、8歳のときに歌舞伎座公演で初舞台を踏み、二代目中村獅童を襲名して歌舞伎役者の道を歩み始めます。

しかし、父が歌舞伎役者を廃業していたことから、本来ならいるはずの番頭や弟子がおらず、その代わりを母がやってくれたと言います。

中村獅童さんの母はひとりで鏡台などの重い荷物を担いで楽屋まで運び、それを見た関係者の中には「獅童ちゃんのお母さまは力持ち」と揶揄して言う人もいたとか。それでも嫌な顔ひとつせずに、お客さまへのごあいさつも含め、すべてをやってくれた今は亡き中村獅童さんの母。

その頑張りを尊敬の念を持って見ていた歌舞伎関係者も多く、「名物おっかさん」、「獅童ママ」として慕い、中村獅童さんが歌舞伎座で初めて古典の主役を演じることになったときには、獅童ママの墓前にこっそりと報告に行ってくれた方もいたのです。

未来の歌舞伎ファンを増やす挑戦

歌舞伎界において、実の父と芸でつながっていないことは大きなハンデですが、中村獅童さんは、その分「実力で這い上がってやろう」という頑張りを人一倍持った歌舞伎役者。

ある歌舞伎関係者はこう話します。「二代目中村獅童の父である初代は、[威張っている人はイヤだ]と平気で言うような人で陰口も叩かれたけれど、とにかく気っ風が良い人。そしてセンスが良かった」と。その父の血を引く中村獅童さんもまた、センスにあふれた人です。

舞台芸術家としてのセンスも持ち、自作の歌舞伎座公演を実現させるほどの情熱と人望があることにも注目が集まっています。

また、2015年(平成27年)、絵本を原作(きむらゆういち作)として、自身で脚本を書き上演した新作歌舞伎「あらしのよるに」は、非常に面白い作品だと大きな反響を呼び、その後再演も繰り返されています。

中村獅童さんは産経新聞の「話の肖像画」の中で、「新作歌舞伎と言うと、映像や新しい技術を使ったものと思われがちですが、この作品は長唄や義太夫といった歌舞伎の音楽に、藤間勘十郎先生の振り付けによる舞踊など、古典歌舞伎の演技法や演出法にこだわって作った作品。風や雨の音の表現も歌舞伎ならではの見せ方をしている」と語っています。

そもそも、絵本あらしのよるにを歌舞伎化しようと考えたのも、「その世界観が歌舞伎の持つ表現法にピッタリとはまるのではないか」と思ったから。新作歌舞伎あらしのよるには、古典にこだわった新作として創り上げられており、中村獅童さんが歌舞伎というものの個性にしっかりと目を向けて、大切にしていることがよく窺えます。

さらに、歌舞伎公演は通常、未就学児童の入場はできない決まりですが、原作を絵本とすることから、入場制限を4歳以上にし、将来の歌舞伎ファンを醸成する試みにも挑戦しているのです。

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