190_島原城

長崎県島原市にある「島原城」。天草四郎による一揆でおなじみの島原の乱や、キリシタン大名である有馬晴信を中心とする島原半島における華やかなキリシタン文化など、多くの歴史・文化を今に伝える歴史ファン必見の観光スポットです。

島原城とはどんなところ?

島原城長崎県島原市)とはどのような場所なのか、施設についてご紹介しましょう!

島原城の魅力

「島原城」は、1623年(元和9年)頃に築城。「島原藩」の藩庁として使われ、壮大な5層天守や櫓・平櫓を要所に配置した城郭は、5万石に満たない島原藩主の居城としてはかなり立派な物でした。

その後、1637年(寛永14年)の島原・天草一揆、1792年(寛政4年)の島原大変、1873年(明治6年)の存城廃城令などによって、1876年(明治9年)までに天守・櫓を失いますが、1964年(昭和39年)に5層天守、1972年(昭和47年)に巽三重櫓などが復元されました。

島原城の敷地内には資料館や博物館が多数あり、歴女、刀剣ファンなら一度は訪れてみたい城郭です。年間20万人以上の観光客が訪れる、長崎の観光名所のひとつとなっています。

島原の歴史

島原城は、江戸時代に築城された城です。この地に築城されるに至るまでには、島原の歴史を振り返ることが欠かせません!

島原及び島原が属していた肥前国の歴史を、歴女や刀剣ファンに向けて詳しくご紹介します。

中世以後、肥前国守護を務めた少弐氏

鎌倉時代の初期から戦国時代まで、肥前を含む北九州地域一帯の守護を務めたのが少弐氏(しょうにし)です。

少弐氏は、平安時代に下野・武蔵の国司と鎮守府将軍となった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔(こうえい:昔の時代に存在した人や一族から代々続く血族のこと)で、武蔵の藤原氏に由来する武藤一族の出身でした。鎌倉時代に武藤資頼(むとうすけより)という人物が鎮西奉行となって、九州に下向したことが少弐氏の始まりです。

武藤資頼は元々平氏の家人でしたが、源頼朝に付き従ってからは鎌倉幕府に重用されます。源頼朝の側近として鎮西奉行となった武藤資頼は、太宰府の少弐という次官も務めて、子孫も世襲していたため、少弐姓を名乗ることになりました。

鎌倉時代以後、少弐氏は九州において強大な権力を持つ一族となり、元寇の際にも中心的な役割を担っています。足利尊氏と後醍醐天皇が争った建武の乱のときも、一時的に九州に敗走してきた足利尊氏を迎え入れたことにより、北九州での勢力を維持。

しかし、南北朝時代になると少弐氏の中でも、北朝方、南朝方への分裂が起こり、さらに中国地方で周防・長門の守護であった大内氏の侵略を受けたことで衰退していきました。

最終的には肥前にまで逃れますが、鎌倉時代から肥前の地頭を務め、戦国時代には九州の3大勢力となっていた龍造寺氏に滅ぼされてしまうのです。

有馬氏の台頭とキリシタン化

戦国時代の島原半島は、日野江城を本拠、近隣の原城を支城とする有馬氏の支配下に置かれていました。

有馬氏は、鎌倉時代に地頭職となっていた肥前有馬氏をルーツとする一族です。戦国時代初期には、没落気味であった少弐氏を援助して肥前一帯を支配するまでになりました。

しかし、戦国時代後期になると、急成長を遂げた龍造寺氏によって次第に圧迫され、一時は臣従するようになっていきます。

これに対抗するために有馬氏が選んだ道が、南蛮貿易での兵力増強。縁戚関係にあった長崎の大村氏を通じて、西欧から強力な武器を入手しようとしたのです。

特に海外との貿易が盛んになったのは、自身も改宗してキリシタン大名となった有馬晴信の時代で、有馬晴信は天正遣欧使節団を派遣するなど、イエズス会との結び付きを強めて龍造寺氏に対抗する力を蓄えていきました。

そしてついに、薩摩の島津氏と連合軍を組んだ沖田畷の戦いで、龍造寺氏の侵攻を退けるまでに至るのです。

キリシタン大名としての地位を確立した有馬晴信は、豊臣秀吉の政権が確立された安土桃山時代も、同じキリシタン大名であった小西行長を通して所領を安堵されています。

さらに関ヶ原の戦いにおいても、徳川家康率いる東軍に味方をして、その功により初代日野江藩主となりました。

江戸時代初期にキリスト教の排斥が進んだときでも、嫡男の有馬直純が徳川家康の養女国姫を娶っていたこともあり、その地位は安泰とされています。

有馬晴信の失脚

南蛮貿易に加え、朱印船貿易でも大きな利益を上げていた有馬晴信が失脚する事件となったのが、「岡本大八事件」です。この事件は、徳川家康の家臣であった本多正純の与力の「岡本大八」が、有馬晴信から金品を詐取したことから起こりました。

有馬晴信は、マカオに朱印船を派遣していたのですが、ポルトガルの船と諍いが起こり、報復として長崎沖でポルトガル船を撃沈するに至ります。このとき有馬晴信は、徳川家康の許可を取り付けたうえで攻撃をしていました。

この騒動に乗じて有馬晴信から金品を騙し取ろうとしたのが、岡本大八です。岡本大八は、ポルトガル船攻撃時に幕府からの目付役として派遣されていたのですが、撃沈に成功したことで徳川家康が喜んでいたと有馬晴信に伝えます。そして褒賞を授けようとしていることを匂わせて、その運動工作のための資金を要求したのです。

有馬晴信には宿願とも言うべき、龍造寺氏に奪われた旧領奪還の思いがありました。そのため徳川家康の朱印状まで偽造していた岡本大八の計略に乗せられて活動資金を渡したのですが、一向に成果が上がりません。そこで有馬晴信は、岡本大八の主君である本多正純に催促することになり、岡本大八の詐欺事件が露見することになったのです。

岡本大八は、本多正純の詰問を受けて投獄されることになったのですが、逆恨みにより有馬晴信も道連れにしようと企みます。

ポルトガル船への攻撃時に、岡本大八と共に長崎奉行であった長谷川藤広という人物が目付として帯同していました。岡本大八は、有馬晴信に幕府が奉行に任命した長谷川藤広を殺害しようとする意思があったと供述したのです。

当初、有馬晴信は否認していたのですが、最終的に殺害の意思を認めてしまいます。ポルトガル船への攻撃時に、自身の作戦を長谷川藤広に否定されて恨みを持っていたことを、岡本大八に利用されてしまったためです。言い逃れることが苦しくなった有馬晴信は、甲斐の国への流罪後に死罪になりました。

有馬晴信は死罪となりましたが、嫡男の有馬直純が徳川家康の近侍となっていたため、有馬家自体の改易は免れています。有馬直純は日野江藩を継ぐことになったのですが、のちに加増されて日向延岡領に移ったため、島原半島における有馬氏の支配は終わりを迎えることになったのです。

このとき、島原の地を離れることを拒否した家臣は、武士の身分を捨てて帰農することになりました。

島原藩を興した松倉家

有馬氏が日向に移ったあと領主となったのが、築城の名人と呼ばれた「松倉重政」です。筒井順慶の家臣であった松倉重政ですが、関ヶ原の戦いで東軍に馳せ参じたことにより、大和五条藩の大名に取り立てられています。

松倉重政はこの地に総構えの城を築き、商業の振興を図るなど、五條城下町の整備に努めました。また諸役を免除し善政を施していたため、松倉豊後守重政という官名から、名君「豊後様」と讃えられています。

1615年(慶長20年)に起った大坂夏の陣においても、端緒を開いた道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛を破るなどの功を上げました。そして有馬氏の旧領を引き継ぐ形で、島原藩を興すことになったのです。

松倉重政は、肥前に入領するにあたり、旧来の日野江城、原城を廃して新たに島原城を築くことにしました。この島原城は、わずか4万石前後の禄高しかなかったのにもかかわらず、10万石に匹敵する規模の城を目指して造られた総石垣の近世城郭となっています。

また松倉家は、戦功を上げたとは言え外様大名であったことから、忠誠を示すために自ら進んで江戸城の普請を引き受けていました。このような巨額の出費を賄うために、島原の領民は重税を取り立てられるなど苛政に苦しむことになります。

キリシタン弾圧と島原の乱

転封直後はキリシタンに寛容であった松倉重政ですが、徳川幕府の禁教令が進むと、それに呼応してキリシタンへの粛清を開始します。

特に鎖国の方針を取り決めた徳川家光の時代には、取り締まりが緩いと叱責を受けたことにより、苛烈な弾圧を課すようになりました。改宗を拒否した信者を残虐な拷問にかけるなど、凄惨な棄教政策が行われるようになったのです。

この徹底した弾圧政策は、松倉重政の死後も、松倉家2代目藩主となった松倉勝家に引き継がれます。

そうして松倉家からの弾圧に苦しみ続けた島原の領民が蜂起した事件が、「島原の乱」です。従来の圧政に加え、凶作による飢饉や自然災害が相次いだことが契機となりました。

農民だけでなく、帰農していた旧有馬家家臣や近隣の牢人も加わり、原城を占拠。島原藩兵だけでは収束できずに、幕府は老中であった松平信綱を派遣するなど、大規模な騒乱へと発展していきました。最後は、糧道を断たれた反乱軍が次第に弱体化していき、原城は陥落するに至ります。

この鎮圧に莫大な人力と費用を費やした幕府は、松倉勝家の責任を追及し領地を没収。さらに島原藩の圧政の歴史が暴かれたことにより、松倉勝家は斬首となっています。

島原城ってどんな城?

島原城は、森岳と呼ばれていた丘陵に築かれた連郭式の平城です。安土桃山時代の様式を採り入れた近世城郭で、完成までに7年の歳月が費やされています。

城域は、南北1,250m、東西363mに及ぶほどの巨大さ!郭内には、5層の層塔型で白色総塗り込め式の天守をはじめ、総数49の櫓が設置されていました。

また、安土桃山様式で築城された島原城の特徴が良く表れているのが石垣です。野面積みでありながら、垂直にそびえるように高く積まれた石垣は、敵の侵入を許すことのない堅固さを示しています。

明治の廃城令や自然災害などで当時の建物は失われてしまいましたが、現在では天守や櫓の再建が進み、城全体が島原城跡公園として整備されています。

天守内部は各種史料館となっていて、キリシタン関連の史料や歴代城主の刀剣、甲冑を展示。歴女や刀剣・甲冑ファンにピッタリの施設です。

その他の櫓も、巽櫓は北村西望記念館、丑寅櫓は民具資料館として活用されており、1990年(平成2年)に起きた雲仙普賢岳噴火災害の様子を映像で紹介している観光復興館も、天守のすぐ側に建てられています。

島原城の見どころ

刀剣ファン必見!期間限定で宝刀を展示

島原城天守閣においては、期間限定で「神気」「神息」の2振の宝刀の展示がされることがあり、宝刀が一般公開されるのは年に1度の特別展のみ!これらは島原7万石藩主の「松平家」に伝わる宝刀なのです!

島原ゆかりの刀剣

島原城に収蔵されている2振の刀剣である神気、神息は、どちらも貴重な歴史資料として保管されています。

神気は鎌倉時代の作品で、執権北条時頼から招かれたこともある刀匠・栗田口国綱の作として「長崎県指定有形文化財」に指定されています。

また神息は、豊前国宇佐の名工が大同年間に平城天皇の皇子の護身刀として作刀された名刀です。

刀工「国綱」の情報と、作刀した刀剣をご紹介します。

人気の武将隊演舞

島原城を訪れる観光客に観光案内や写真撮影、忍者体験のお手伝いなどを行っている「島原城七万石武将隊」。島原城のお祭りなどで、天守閣を背に武将隊が演武を披露するなど、多くの方に島原の魅力を伝える一助となっています。

SNSなどを通じて活動報告やイベント情報の宣伝を積極的に行っているので、歴女の方はチェックしてみましょう!

島原城近くのおすすめ飲食店

旅行や観光には欠かせない、島原城の近くで食事を楽しめるスポットをご紹介していきましょう。

姫松屋 本店

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姫松屋 本店

姫松屋 本店」(ひめまつや ほんてん)は、島原の郷土料理である「具雑煮」が名物の料理屋です。

具雑煮とは島原半島地域で正月に食べる雑煮のことで、その由来は1637年(寛永14年)の島原の乱において、一揆軍の総大将であった天草四郎が、農民達に餅を兵糧として貯えさせ、山や海から様々な材料を集めて雑煮を炊いたことが始まりと言われています。

ガレージ食堂

ガレージ食堂」は、島原市役所の近くに店舗を構えている定食屋さんです。地元の方に非常に人気のお店で、お昼の時間は満席になることもしばしば。

メニューが豊富に用意されており、ボリュームも満点です!

島原城近くのおすすめ宿泊施設

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旅行や観光に便利な、島原城にアクセスしやすいおすすめ宿泊施設をご紹介します。

島原ステーションホテル

島原ステーションホテル」は、島原駅からアクセスしやすいビジネスホテルです。宿泊費は非常にリーズナブルで、旅行や観光だけでなく、ビジネスの拠点にもピッタリ!

モーニングは和洋バイキング形式となっているので、朝からしっかりと食べて1日をスタートできます。

ビジネスホテル千鳥

ビジネスホテル千鳥」は、島原の中心に位置しているため非常に利便性が良く、島原鉄道駅やバスターミナルへもすぐにアクセスできるので、拠点の宿泊地として最適です。

宿泊料金はとてもリーズナブル!2名以上の宿泊なら洋室と和室から選ぶことができます。

島原東洋パークサイドホテル(旧島原第一ホテル)

島原東洋パークサイドホテル」(旧島原第一ホテル)は、2016年(平成28年)11月にリニューアルオープンしたビジネスホテルです。客室は10階まであるので、部屋数はたっぷりとあります!レストランや売店コーナー、ランドリールームなどを完備しているため、旅行や観光の拠点にピッタリです。

素泊まりプランもあるので、観光地での食べ歩きを堪能したい人にもおすすめとなっています。

島原城と一緒に楽しみたいおすすめ観光スポット

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島原城へ行ったならぜひ一緒に回りたい、おすすめ観光スポットをご紹介します。

護国寺

護国寺」は、島原の乱から13年後の1651年(慶安4年)に、島原藩主として入封した高力忠信によって創建されました。

旧暦のひと月30日間、毎日交替で国家と人々を守る日本国内の三十柱の神々を「三十番神」と言い、護国寺では特に蘇生三十番神と呼ばれています。

江東寺

江東寺」(こうとうじ)は、1558年(永緑元年)、有馬晴信の弟である宣安明言和尚が北有馬・田平に開山したことに始まります。

1792年(寛政4年)の島原大変において、江東寺も崩壊流失の被害に遭い、その8年後に現在地に建立されました。

島原カトリック教会

島原カトリック教会」は、島原市内にあるキリスト教会です。島原の乱ののち、キリシタンが根絶されたとされる島原半島では、1902年(明治35年)からようやく再宣教が始まりました。

1932年(昭和7年)に島原二の丸教会を建立し、1997年(平成9年)に現在のドームの教会が建てられることとなりました。

まとめ

島原城では年に1度の特別展示において、松平家に伝わる宝刀である2振の日本刀(刀剣)を展示公開しています。

また、島原城の敷地内には資料館や美術館があり、島原半島における歴史や文化を今に伝えています。特にキリシタン文化とは深いつながりがある土地柄であることから、関連資料は非常に多く、宗教文化についても興味深い内容の資料が揃っているのです。

歴史資料館としては少し風変わりかもしれませんが、それがまた他にない楽しみや発見をもたらしてくれるのではないでしょうか。

九州へ旅行の際は、ぜひとも島原城まで足を伸ばしてみましょう!

【関連サイト】
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