徳川慶喜_41サムネイル

こんにちは。刀剣ワールドライターのつばめです。

「徳川慶喜」と言えば、江戸幕府15代将軍で、江戸幕府を終焉させた人物。最後の将軍になるなんて、「残念な将軍」、「ダメな将軍」というイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。ところが、徳川慶喜は実は「徳川家康の再来」と恐れられるほど、頭脳明晰と言われていたのです。それならば、なぜ、どこから徳川慶喜はダメ将軍というイメージになってしまったのでしょうか。徳川慶喜の「人生の岐路」に迫ってみましょう。

刀剣女子座談会
刀剣ワールドライターの「つばめ」が刀剣座談会に参加!刀剣に関することを刀剣女子達が熱く語っています。

徳川慶喜は徳川家康の再来だった!?

徳川慶喜のイメージは?

突然ですが、皆さんは江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)について、どんなイメージをお持ちですか?

「大政奉還をして江戸幕府を終焉させた残念な将軍」
「政策がない、世襲しただけの傀儡将軍」

しかし、徳川慶喜は調べれば調べるほど、そんな人ではなく、優秀ですごい人物だったと分かるのです!

徳川慶喜という人物

徳川慶喜は、1837年(天保8年)生まれ。水戸徳川家9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男です。母は「有栖川宮織仁」(ありすがわのみやおりひと)親王の王女「吉子女王」。

幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)で、生後7ヵ月で江戸の親元を離れ、水戸の藩校「弘道館」で儒学者「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)らに水戸学を教授されるなど、厳しく育てられました。

徳川慶喜は好奇心が強く、武芸も馬術も得意で、1846年(弘化3年)の9歳のときにはその聡明ぶりが評判となり、1847年(弘化4年)の10歳のときには「一橋家」の養子へと迎えられます。

一橋家と言えば「御三卿」(ごさんきょう)のひとつで、将軍に継嗣がないときには将軍家を相続できる高い家柄。つまり、水戸徳川家から一橋家に養子縁組するということは、徳川慶喜が将来将軍になる可能性が高いエリートコースに乗ったことを意味しました。

その後も、徳川慶喜は「英邁」(えいまい:特別に才能が優れていること)、「怜悧」(れいり:賢い、利口、利発なこと)、「多才」と評価され、1853年(嘉永6年)の16歳のときには、すでに13代将軍候補に名前が挙げられるほど、期待の星だったのです。

徳川慶喜を含む、江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

15代将軍・徳川慶喜の功績とは

とても聡明で、周囲から将軍になって欲しいと人望も厚かった徳川慶喜。ただし、当の本人は実父・徳川斉昭宛てに「将軍になって失敗するなら、最初から将軍にならない方が良い」という趣旨の手紙を書いていたように、どうしても将軍になりたいという意欲のある人物ではありませんでした。

ところが、14代将軍「徳川家茂」が突然病没したことで、1866年(慶応2年)12月、29歳のときに、ついに将軍となるのです。背が高くイケメンと評され、大奥からの人気も高かったと言われます。才覚ある徳川慶喜が将軍になれば、徳川家は安泰のはずでした。

徳川慶喜の功績を振り返ってみましょう。

幕政を改革

徳川慶喜が将軍になってすぐに取り掛かったのが、フランス公使「ロッシュ」の意見を取り入れた、幕政改革です。

ヨーロッパの行政組織の要素を取り入れ、陸軍総裁、海軍総裁、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁を設置して、老中を任命。

また、240万ドルの支援を受け、横須賀製鉄所、横須賀造船所を設立。実弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)を含む、幕臣子弟の欧州留学も奨励しました。

大政奉還

1867年(慶応3年)、徳川慶喜は「大政奉還」を上表し、朝廷に政権を返上、翌日受諾されました。これにより、江戸幕府は終焉したのです。

江戸幕府を終焉させるなんて、これが徳川慶喜の間違いだ、失策だと思う人も多いでしょう。しかし、聡明な徳川慶喜にとっては、江戸幕府を終わらせることは大したことではありませんでした。むしろ、江戸幕府以上の新しい日本の未来を描いての大政奉還だったのです。

しかも、大政奉還したことで討幕には至らず、討幕をしたかった薩摩藩長州藩という討幕派の狙いを潰すことにも成功しました。

鳥羽・伏見の戦いを起こす

大政奉還しても、朝廷に政権運営ができる能力はなく、徳川慶喜は朝廷から引き続き政務を行うよう言い渡されます。

これを快く思わなかったのが、薩摩藩・長州藩です。これでは新しい世にならないと、すぐに「岩倉具視」と連携し、「王政復古の大号令」を宣言。徳川慶喜を排除して朝廷を掌握し、討幕派の薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩越前藩の5藩で、新政府を樹立したのです。

新政府は徳川慶喜に対して、辞官、領地返納を命じます。自分を中心に新しい日本を作ろうとしていた徳川慶喜はもちろん、これに応じる気はありません。

徳川慶喜は、京から目が届きやすい大坂に移って、何とかこの状況を打破しようと新政府を監視することにしました。

しかし、薩摩藩の「西郷隆盛」が江戸で窃盗、放火などを起こし挑発。これに家臣が応じてしまい、ついに1868年(慶応4年)1月、戊辰戦争の初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が起きるのです。

徳川慶喜の間違いとは

徳川慶喜は、一体どこで間違えてしまったのか。それは、鳥羽・伏見の戦いを起こしたときではないでしょうか。

徳川幕府軍15,000兵に対して、新政府軍は5,000兵。数字の上では徳川幕府軍が勝っていました。

しかし、徳川慶喜は、新政府軍側から「錦の御旗」(にしきのみはた)が掲げられるのを見て、戦意を喪失。これは、徳川慶喜が「朝敵」(ちょうてき:朝廷にそむく敵)となったことを意味していたのです。

189_錦の御旗
錦の御旗

朝敵となることを恐れた徳川慶喜は、大坂から江戸へと敵前逃亡。その後、上野・寛永寺で謹慎、新政府に対して恭順の意を表明し、江戸城を開城。戊辰戦争が終わるまで、水戸の地で謹慎生活を送りました。

徳川慶喜の間違いは、よくこの敵前逃亡だと言われます。武士の棟梁として最も恥ずかしいことと非難されました。しかし私は、徳川慶喜が間違えたのはこの敵前逃亡の少し前だと思うのです。

徳川慶喜は、明治政府軍から揚がった錦の御旗を見て青ざめたと言われます。のちに徳川慶喜は、「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という水戸徳川家の家訓を守ったために、敵前逃亡したのだと語っています。

そうだとすれば、鳥羽・伏見の戦いを起こす前に、朝廷とコミュニケーションを取らなければいけなかったのです。是が非でも、徳川慶喜が錦の御旗を手に入れるべきでした。これができなかったことがダメだったのです。

しかし、徳川慶喜が間違えたからこそ、明治政府が生まれ、現在の日本となっています。水戸での謹慎が解けたあと、徳川慶喜は静岡県に転居。本妻だけでなく妾にも恵まれ、なんと10男11女を儲けました。

また写真撮影などの趣味を充実させた生活を送り、1902年(明治35年)の65歳のときに公爵、貴族院議員になり、77歳で病没しました。

徳川慶喜のおかげで徳川将軍家は滅び、残念ながら最後の将軍になってしまいましたが、徳川慶喜自身としては幸せな人生を過ごせたようです。

【関連サイト】
徳川慶喜 徳川斉昭 西郷隆盛