198_徳川慶喜は本当に敵前逃亡をしたのかサムネ

刀剣ワールドライターの甘味です。「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、徳川幕府最後の将軍として「大政奉還」を行った有名な人物。2021年(令和3年)放送の大河NHKドラマ「青天を衝け」は、主人公は「渋沢栄一」ですが、徳川慶喜が物語の重要な役割を担うポジションとして登場します。しかし徳川慶喜は、どういう訳か新政府軍との戦「鳥羽・伏見の戦い」を前に逃げ出してしまうのです。頭脳明晰で切れ者でもあった徳川慶喜は、なぜ武士として屈辱的とも言える敵前逃亡をしてしまったのか、その謎に迫っていきます。

将軍に就任するも本心は乗り気じゃなかった

徳川慶喜が15代将軍となったのは、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が、1866年(慶応2年)7月20日に崩御したことによるものでした。何人かいた将軍候補の中で、最も家系・官位・経験において他に並ぶ者のいない人物として、当時の帝「孝明天皇」(こうめいてんのう)からの強い勧めもあって、同年の12月20日に将軍宣下を受けることとなったのです。

しかし、徳川慶喜本人としては、将軍就任への意欲はあまり高くなかったと言います。それもそのはずで、国内は薩摩藩長州藩などの反幕府勢力が倒幕を掲げており、幕府内には反徳川慶喜派の幕臣がいるなど、内憂外患の状態でした。

徳川慶喜が江戸幕府側から疎まれていたのは、聡明過ぎて他人よりも考え方が何歩も先を行き、発言や行動が伝わりにくかったからだと言われています。

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水戸藩の尊王思想を学んで育つ

徳川慶喜の父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、水戸徳川家の9代藩主です。

この水戸藩には、幕府よりも朝廷や天皇を重んじる「尊皇思想」という哲学が根付いていました。徳川慶喜は、父・徳川斉昭からも「幕府を敵に回すことがあったとしても、朝廷を敵にしてはならない」と教えを受けたと、のちに徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」でも語っています。

江戸時代末期の国内では、激化する暗殺、襲撃事件、経済的な混乱、外国との条約問題を不安視する民衆など、多くのことが起きていました。

徳川慶喜の伝記「徳川慶喜公伝」には、「此の際、幕府を廃して王政を復古せんと思ふは如何に」(江戸幕府を終わりにして、天皇による政治、王政復古を考えているがどうしたら良いだろうか)と家臣「原市之進」(はらいちのしん)に尋ねたことが書かれています。

徳川慶喜は、江戸幕府の力が弱まり、国家としての統一が不可能となりつつある今、朝廷に政権を返す大政奉還の道があることも十分に考えていたのです。

倒幕派の意表をついて自ら大政奉還を行う

将軍に就任した徳川慶喜は、たとえ乗り気ではなくとも任された以上は役目を全うしようと、朝廷や諸大名、諸外国との交渉をし、雄藩大名との会議を頻繁に行いました。これによって国内外に、幕府の余力があることを示そうとしたのです。

また、徳川慶喜が畿内で拠点としていた「大阪城」(大阪府大阪市中央区)を出て「二条城」(京都府京都市中京区)に移るなど、京都で諸大名らが朝廷に取り入らないよう行動を牽制。他にも、多くの軍事改革・政治改革を行いましたが、すでに人心は江戸幕府から離れていました。

あるとき、土佐藩から「朝廷に大政を奉還してはいかがか」といった提案をされると、前々から大政奉還の重要性を考えていた徳川慶喜は、あっさりこの提案を受け入れます。

1867年(慶応3年)10月12日に幕臣へ、翌日の10月13日に諸大名へ大政奉還の意志を伝えました。とんとん拍子に話は進み、10月14日には朝廷に上表(じょうひょう:君主に文書を奉ること)を提出し、徳川幕府265年の歴史を終わらせたのです。

倒幕派のクーデターで窮地に陥る

このとき徳川慶喜は、朝廷に政治を行う権限を返す大政奉還を行いましたが、官位である征夷大将軍の位は返していない状態。徳川幕府は終わりましたが、現時点で徳川慶喜はまだ征夷大将軍という朝廷の一官吏でした。

なぜ返還しなかったのかというと、徳川慶喜は天皇を中心とした政治を行うにあたり、自身がそれを補佐するためにも征夷大将軍であり続ける必要があると考えていたからです。また周囲も、徳川慶喜が自ら大政奉還したことで評価が急上昇し、新政府の要職に就くことを期待していました。

しかし、1867年(慶応3年)に、薩摩藩や土佐藩ら有力大藩が協力してクーデターを起こす事件が起き、朝廷は彼らに掌握されます。新政府を樹立する「王政復古の大号令」が出され、その内容は徳川慶喜から将軍職を剥奪し、領地の返納、新政府の要職からも排除するというひどいものでした。倒幕派からすれば、将軍自ら政権を返してしまうのは計算外で、このまま新政府に参画されては困ると考えていたのです。

薩摩藩を中心とした大藩の勝手な振る舞いに腹を立てた徳川慶喜は、1867年(慶応3年)12月12日に、家臣と友好的だった会津藩、桑名藩の藩士らを連れて大阪まで退去しました。

突然、大阪から江戸へと退去する

このとき、徳川慶喜に味方していた越前藩藩主「松平慶永」(まつだいらよしなが)、会津藩藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)、尾張藩藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)の3名が、徳川慶喜が新政府に起用されるよう奔走します。

その甲斐あって、徳川慶喜の議定職(明治政府の官職)就任が決定。準備のため徳川慶喜は、旧幕府軍を大阪から京都に送りました。

しかし、1868年(慶応4年)1月3日に、京都郊外で待ち伏せしていた薩摩藩・長州藩の軍が旧幕府軍に向けて攻撃を仕掛けたことで、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。

198_月岡芳年 作「城洲伏見下鳥羽合戦之図」
月岡芳年 作「城洲伏見下鳥羽合戦之図」

薩摩藩や長州藩との交戦が続く最中の1868年(慶応4年)1月6日夜、徳川慶喜は老中など少数の家臣だけを連れて、軍艦「開陽丸」に乗船。大坂城内にいる旧幕府将兵にも知らせず、大阪を退去してしまいます。

天皇側の薩摩藩や長州藩と交戦したことで、1月7日、朝廷より徳川慶喜追討令が出されることになり、ついに徳川慶喜は「朝敵」となってしまいます。朝廷に弓引くことになるという徳川慶喜が最もおそれた事態でした。

徳川慶喜が大阪から江戸に退去したルート

198_徳川慶喜が大阪から江戸に退去したルート

1868年(慶応4年)1月11日に品川に下船し、翌日の1月12日に徳川慶喜一行は江戸に到着。徳川慶喜は将軍になって以来、初めて「江戸城」(現在の東京都千代田区)に入りました。そして、京都から江戸に攻めてくるだろう新政府軍に江戸城を明け渡すため、その段取りを幕臣「勝海舟」(かつかいしゅう)に指示します。

そして徳川慶喜自身は、1868年(慶応4年)2月12日に徳川宗家の菩提寺「寛永寺」(東京都台東区)に向かい、戦意がないことを示すため自ら謹慎に入りました。

江戸城到着から寛永寺まで移動したルート

198_江戸城到着から寛永寺まで移動したルート

1868年(慶応4年)4月4日、勝海舟と薩摩藩士「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が会談を行い、江戸城は無血開城し戦火を交えることなく明け渡されたのです。

その後も旧幕府軍による抵抗は続き「戊辰戦争」が始まりますが、徳川幕府の統治は完全に終わりました。

徳川慶喜が敵前逃亡をした本当の理由

徳川慶喜は、なぜ大阪城から去ってしまったのでしょうか。この行動は、後世まで「臆病者」や「意気地なし」のように罵られ、現在の不人気を決定付ける要因となっています。

こうした行動に出た理由は、かつては定説がないとされてきました。明治時代に入っても、徳川慶喜が当時の心境を語らなかったからです。

それが、2012年(平成24年)に公開された徳川宗家に伝来した文書によると、徳川慶喜の大阪脱出は、崇敬する天皇家に歯向かって朝敵になることをおそれたからだとされています。

徳川慶喜は、水戸藩の尊王思想や父・徳川斉昭からの「幕府を敵に回すことがあったとしても、朝廷を敵にしてはならない」という教えを守ろうとしたのかもしれません。

さらに、戦によって多くの人々が命を落としてしまうからだとも書かれているのです。これについては、実際、江戸城を無血開城させたことからも分かります。そしてこの無血開城により江戸城下が戦火を免れたことで、明治政府発足は予定よりも早く進んだと言われているのです。

まとめ

徳川慶喜が、新政府軍と戦うことなく敵前逃亡した理由は、天皇家を何より崇敬していたからということと、戦によって多くの被害が出ることを防ぐためだったのです。

これが戦国時代の武将でしたら、「敵に背を向けるは末代までの恥」として命の限り戦い続けたかもしれません。そういった意味で徳川慶喜は、封建社会の武士というよりも、現代人のような合理的な思考をする人でした。敵前逃亡したことで臆病者と罵られることになりますが、自分自身の評価よりも人の命を優先した戦略的な撤退だったと言えます。

明治時代以降の徳川慶喜は、政治にかかわることはなく、東京から遠く静岡県で約30年間隠居生活を送りました。明治政府に反抗する意思がないことを示すためでしたが、徳川慶喜の人生のなかで最も穏やかな時間だったと言います。

のちの1898年(明治31年)3月に明治天皇に拝謁し、公爵位を授かることで「逆賊」や「朝敵」の汚名がようやくそそがれることとなりました。

【関連サイト】
徳川慶喜 徳川斉昭