北条義時_32

日本初の武家政権「鎌倉幕府」誕生の際に活躍したのが、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)に拠点を置く豪族「北条氏」です。なかでも2代執権となった「北条義時」(ほうじょうよしとき)は絶大な権力を握り、北条氏による執権政治を完成させました。2022年(令和4年)放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(かまくらどのの13にん)の主人公となった北条義時の生涯と、彼が携わった13人の合議制や執権政治について解説します。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
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13人の合議制
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北条義時とは

北条義時」(ほうじょうよしとき)は、1163年(応保3年/長寛元年)に伊豆の豪族である北条氏一門の武将「北条時政」(ほうじょうときまさ)の次男として誕生しました。

時は平安末期、1159年(平治元年)に起こった「平治の乱」(へいじのらん)で源氏を打ち負かした「平清盛」による政権が誕生しようとしている頃でした。

北条義時のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

北条政子の弟として源平合戦に参加

北条義時の父・北条時政が敗軍の将であった「源義朝」(みなもとよしとも)の嫡子「源頼朝」(みなもとのよりとも)の監視役となったのは、1160年(永暦元年)のことです。

やがて、北条義時の姉「北条政子」(ほうじょうまさこ)は源頼朝に恋するようになります。北条時政は猛反対しますが、駆け落ち同然で源氏の御曹司の妻となり、父親も折れざるを得ませんでした。

しかし、1180年(治承4年)に「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が「平家追討」の令旨(りょうじ:皇太子などの命令を伝える文書)を全国の源氏に向けて発したことで、時は大きく変化します。

源頼朝はいったん静観を決めますが、令旨を受け取った源氏を平家が見逃すはずがありません。ついに源頼朝は挙兵を決意し、「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)が始まりました。

北条義時は北条時政と兄「北条宗時」(ほうじょうむねとき)とともに参戦。「石橋山の戦い」で北条宗時は戦死しますが、北条義時は父子ともにその後も続く戦いに身を投じ、大きな武功を挙げることとなります。

源頼朝の厚い信頼

北条義時の治承・寿永の乱における活躍ぶりは、高く評価されました。1181年(養和元年)には、源頼朝の寝所(しんじょ)を警護する11人のひとりとなり、上洛の際には有力御家人とともに随兵(ずいひょう)7人に選ばれるなど、次第に頭角を現すようになります。

1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が誕生したのちも懸命に仕えていた北条義時でしたが、1199年(建久10年/正治元年)、源頼朝が53歳で急逝。主従関係は突然終わりを迎えることとなりました。

権力闘争に明け暮れた後半生

源頼家
源頼家

跡を継いだのは源頼朝と北条政子の嫡男「源頼家」(みなもとのよりいえ)です。

当時まだ18歳の源頼家は、北条義時とは叔父甥の間柄でしたが、養育係だった比企氏を贔屓することが多かったと言われています。

さらに「比企能員」(ひきよしかず)は娘の「若狭局」(わかさのつぼね)を源頼家に嫁がせ、外戚として将軍家との結び付きを強めていたのです。

2代将軍就任後、13人の合議制が開始

将軍職を全うしようとする源頼家でしたが、慣習を無視した専横が目立ち、御家人達からは不満の声が上がるようになります。

そこで1199年(建久10年)4月、政務を補佐しようと「13人の合議制」が発足。北条義時も北条時政とともに参加することとなりました。

しかし、1年も経たないうちに御家人同士の権力争いが勃発します。源頼朝の寵臣であった「梶原景時」(かじわらのかげとき)が失脚、翌年の1200年(正治2年)には「安達盛長」(あだちもりなが)「三浦義澄」(みうらよしずみ)が相次いで病死したため、合議制は頓挫してしまうのです。

父子対立の末、2代執権に就任

ともに合議制のメンバーに名を連ねていた比企氏と北条氏は、次第に対立を深めていました。

1203年(建仁3年)に源頼家が危篤に陥り、これを機に北条氏は比企能員を一族もろとも攻め滅ぼします。病状が回復した源頼家は激怒し、北条氏を討とうとしますが、実母の北条政子によって「修善寺」(しゅぜんじ:現在の静岡県伊豆市)に幽閉。その後、北条氏により、源頼家は23歳の若さで殺害されてしまいました。

北条時政・北条義時父子は3代将軍に弟の源実朝(みなもとのさねとも)を擁立。北条時政が初代執権(しっけん)の座に就くことで、再び権力を取り戻すこととなりました。

2代将軍の世が続けば比企氏の台頭は確実だったため、源頼家と比企一族の滅亡は北条氏の陰謀ではないかとする説もあります。

これまで北条時政と二人三脚で政敵を排除してきた北条義時でしたが、北条時政の画策した陰謀によって父子は対立を余儀なくされました。

そんななか、源実朝暗殺計画が浮上。北条時政は、後妻である「牧の方」とともに娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を将軍に就任させるため、自分の孫を殺そうとしました。

しかし、北条義時は首謀者である北条時政と牧の方を鎌倉から追放。そして、北条時政の跡を継いで2代執権の座に就くこととなったのです。

後鳥羽上皇との戦いに勝利

一度は難を免れた源実朝でしたが、1219年(建保7年/承久元年)、源頼家の遺児「公暁」(くぎょう/こうきょう)によって暗殺されてしまいます。源実朝には子がなく、源氏の嫡流は3代で断絶することになったのです。

以前から、次期将軍候補として後鳥羽上皇の親王が検討されていました。改めて朝廷に申し入れるものの、後鳥羽上皇がこれを拒否。幕府は源頼朝と遠戚である「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)をわずか1歳で次期将軍に迎え入れます。

幼い将軍の後見人となったのは、北条政子でした。「尼将軍」として将軍職を代行し、実務は北条義時が担当したため、幕府運営は実質、北条氏が掌握することとなったのです。

北条政子_4
北条政子

後継者をめぐるいざこざは朝廷と幕府の関係を悪化させ、ついに1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が幕府倒幕を掲げて挙兵、「承久の乱」が勃発します。

後鳥羽上皇は「北条義時を討て」と全国の武士に促し、武士の間に動揺が広がりました。しかし、北条政子は「源頼朝公の恩は山よりも高く海よりも深い。上皇の側近を討って源実朝公の遺跡を全うせよ」と演説し、武士達は再び源頼朝の名のもとに一丸となって戦うことを決意します。

総勢19万人もの大軍を擁した幕府勢を前に、朝廷は成すすべがありませんでした。こうして、承久の乱は鎌倉幕府の大勝利で幕を閉じたのです。

武家政権を盤石なものにした執権政治

承久の乱の戦後処理では幕府側が朝廷側を処罰するという前代未聞の事態となり、これは両者の力関係が完全に逆転したことを象徴するものでした。

北条義時は「六波羅探題」(ろくはらたんだい:朝廷を監視する出先機関)を設置。また、公家や西国武士の所領を没収し、幕府のために戦った御家人達に恩賞として分け与えるなど、執権として手腕を振るい、その支配を全国へと拡大していったのです。

権力闘争に明け暮れた北条義時でしたが、1224年(貞応3年/元仁元年)に病を得て亡くなります。享年62歳でした。

13人の合議制とは

13人の合議制は、将軍の権限を制限し、御家人達の合議によって「訴訟」を取り扱うべくスタートした制度です。

源頼家は慣習を無視した采配を振るうことがあり、御家人達から不満の声が上がっていたことを受けて導入されたと言われています。

土地争いをめぐる訴訟は武家社会においては非常に重要なもので、これを将軍が直接取り扱うのを禁止し、宿老(しゅくろう)と呼ばれる13人が取り次ぐと定められたのです。

最終的な判断は将軍が下すことになっており、単なる将軍外しではなく将軍を補佐するためのものでもあったと考えられています。

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