201_鎌倉殿の13人について解説!

「源頼朝」亡きあと、鎌倉幕府の将軍の座に就いたのは彼の嫡男「源頼家」でした。彼が将軍となったわずか3ヵ月後に発足したのが、北条氏を中心とした「13人の合議制」です。2022年(令和4年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で取り上げられたことで知られるようになりましたが、なぜ13人の合議制は2代将軍が就任して間もない頃に導入されることになったのでしょうか。合議制が始まった理由とその目的や狙い、参加した13人の顔ぶれなど、13人の合議制についてご紹介しましょう。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
「北条義時」が主人公のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のあらすじやキャストなど基本情報をご紹介します。
13人の合議制
鎌倉幕府2代将軍「源頼家」の時代に作られた集団指導体制「13人の合議制」。各人物の詳細な解説を掲載しています。

13人の合議制発足の経緯

源頼朝」(みなもとのよりとも)は、源氏の棟梁として卓越した政治力を発揮し、多くの御家人達を従えてきました。その嫡男として生まれた「源頼家」(みなもとのよりいえ)は次期「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府の将軍のこと)として大切に育てられ、12歳で鹿を射止められるほどの武芸の達人に成長します。

しかし、1199年(建久10年)1月13日に源頼朝が急逝し、2代将軍を襲名した際、源頼家はまだ18歳。未熟さが目立つ上に、偉大な父を超えるだけの政治的手腕やカリスマ性には残念ながら恵まれていませんでした。

源頼家は周りの期待に応えようとしますが、思いは空回りし、これまでの慣習を無視した独断専行が目立つようになります。源頼家の独裁的なやり方に御家人達は次第に危機感を強めていきました。

13人の合議制誕生

源頼家の政権運営には、実母である北条政子(ほうじょうまさこ)も強い懸念を抱きます。源頼家の独裁政治が続けば、御家人達の反発は免れません。

源頼朝の急死と突然の将軍交代劇は、世情不安を招いただけではなく、朝廷でもチャンスとばかり反幕府勢力が活発化しはじめました。そのようなときに将軍と御家人が対立すれば、幕府の存続が危ぶまれることは想像に難くありませんでした。

そのため、将軍職の権限を制限すべく誕生したのが、有力御家人達による合議制です。合議制は、特定の御家人が源頼家を補佐していたことも導入の理由となったと考えられています。

将軍が側近を頼ることで彼らに権力が集中すると不満を抱く者が多かったため、合議制によって不公平を正そうとしたのです。

13人の合議制について

13人の合議制が発足すると、源頼家が訴訟(そしょう:御家人同士の土地争いのこと)に直接携わることは禁止され、あらゆる訴訟は13人の有力御家人が必ず取り次ぐことと定められます。

13人の合議制の背景

当時の武家社会は「御恩と奉公」(ごおんとほうこう)で成り立っていました。武家の「棟梁」(とうりょう)が所領を与える御恩に対して、御家人(ごけにん)は有事の際に馳せ参じる奉公で報いるという関係です。それほど鎌倉武士にとって所領の安堵は一大事でした。

主従関係の構築にもっとも重要な決定権を掌握していたからこそ、将軍は権威ある存在だったのですが、訴訟をいかに裁くかは将軍の裁量に任されており、源頼家の裁断は御家人達の納得を得られるものではなかったのです。

201_梶原景時
梶原景時

もちろん、未熟な将軍をサポートする者がいなかった訳ではありません。

源頼朝は、源頼家の政治的後見人に「梶原景時」(かじわらかげとき)と「比企能員」(ひきよしかず)を指名。他にも「大江広元」(おおえのひろもと)や「中原親能」(なかはらのちかよし)らが源頼家を補佐する任にあたっていました。

しかし、そうした体制がかえって他の御家人達の不満を募らせることに。そのため、より多くの御家人達が参加できる合議制の導入を後押しすることとなったのです。

13人の合議制の運営

合議制に参加したのは「宿老」(しゅくろう:十分に経験を積んだ古参の臣のこと)と呼ばれた13人の有力御家人です。

13人以外には取り次ぎを認めないと決まってはいたものの、会議は13人全員参加が必須だった訳ではありません。また、最終判断は将軍が下すことになっていました。

しかし、源頼家は、自らの権限を御家人達に制限されたことに反発します。側近であった「小笠原長経」(おがさわらながつね)、「比企宗員」(ひきむねかず)、「比企時員」(ひきときかず)、「中野能成」(なかのよしなり)など、指名した近習(きんじゅ:主君の側に仕える役。きんじゅう、きんしゅうとも呼ぶ)以外の将軍への目通り(めどおり:身分の高い人へお目にかかること。拝謁)を許さないと命じ、御家人達との溝はますます広がっていきました。

合議制に参加した13人

合議制に参加した13人の人物についてまとめました。

合議制に参加した13人
北条氏関係
北条時政
(ほうじょう
ときまさ)
1138年(保延4年)~1215年(建保3年)
伊豆国の豪族「北条氏」の一門。
北条政子・北条義時の父。
鎌倉幕府初代執権に就任。
1205年(元久2年)に失脚。
北条義時
(ほうじょう
よしとき)
1163年(長寛元年)~1224年(元仁元年)
北条政子の弟。北条時政の次男。
鎌倉幕府2代執権に就任。
源氏の断絶後には実質的な指導者となる。
比企氏関係
比企能員
(ひき
よしかず)
生誕不詳~1203年(建仁3年)
信濃・上野(現在の群馬県前橋市)守護。
源頼朝の乳母「比企尼」(ひきのあま)の養子であり、源頼家の嫡男「一幡」(いちまん)の祖父。
のちに北条時政と対立し、比企一族は滅亡。
安達盛長
(あだち
もりなが)
1135年(保延元年)~1200年(正治2年)
三河(現在の愛知県東部)守護。
源頼朝の流人時代からの側近。源頼朝と北条政子の間を取り持った人物とされている。
足立遠元
(あだち
とおもと)
生没年不詳
公文所寄人(くもんじょよりうど:公文所とはのちの政所であり、行政を管理する機関。また寄人とは職員のこと)として活躍。
安達盛長の甥であり、「源義朝」(みなもとのよしとも)から4代に亘って仕えた文官。
三浦氏関係
三浦義澄
(みうら
よしずみ)
1127年(大治2年)~1200年(正治2年)
相模(現在の神奈川県)の守護。
源義朝の家人であり、石橋山の戦い後には源頼朝の忠臣となる。
和田義盛
(わだ
よしもり)
1147年(久安3年)~1213年(建暦3年)
鎌倉幕府初代「侍所別当」(さむらいどころべっとう:御家人を統括する機関[侍所]長官)。
三浦氏一族として、源頼朝の挙兵に参加。その後、北条氏に与(くみ)した。
その他の重臣
梶原景時
(かじわら
かげとき)
1140年(保延6年)~1200年(正治2年)
侍所別当。
石橋山の戦いで敗走する源頼朝を救ったことから重用される。源頼朝の死後、追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の乱)。
八田知家
(はった
ともいえ)
1142年(康治元年)~1218年(建保6年)
常陸(現在の茨城県)守護。
小田氏の始祖であり、小田城の築城者。
文官の御家人
大江広元
(おおえの
ひろもと)
1148年(久安4年)~1225年(嘉禄元年)
初代「政所別当」(まんどころべっとう:一般的な政務や財政を司る[政所]長官)。
公家出身であり、中原親能の弟。
源頼朝の死後も、北条義時や北条政子に協力し、鎌倉幕府に尽力した。
中原親能
(なかはらの
ちかよし)
1143年(康治2年)~1208年(承元2年)
公家出身であり、大江広元の兄。
公文所寄人であり、鎌倉幕府の中枢で活躍。
鎌倉幕府と対公家交渉で大きな功績を果たす。
二階堂行政
(にかいどう
ゆきまさ)
生没年不詳
政所執事。
大江広元や三善康信らとともに源頼朝を支えた実務官僚。
二階堂氏の祖。
三善康信
(みよしの
やすのぶ)
1140年(保延6年)~1221年(承久3年)
初代「問注所」(もんちゅうじょ・もんぢゅうしょしつじ:訴訟の事務に携わる機関[問注所]長官)執事。
公家出身。源頼朝の流人時代から支え、その後も源氏3代に仕えた。

短命に終わった13人の合議制

201_梶原景時終焉の地
梶原景時終焉の地

1199年(建久10年/正治元年)にスタートした合議制ですが、半年ほど経った同年11月、梶原景時が他の御家人達との対立が原因で失脚。早くも合議制メンバーはひとり欠けることになります。

梶原景時は源頼朝の信任が厚い寵臣で、源頼家の補佐も任されていました。しかし、2代にわたって大きな権力を振るう梶原景時は、勢力拡大を狙う御家人達にとっては目障りな存在であり、彼の失脚は権力闘争の一環であったとも言われています。

そして、翌年の1200年(正治2年)には「安達盛長」、「三浦義澄」が相次いで病死し、合議制はたった1年で機能を失うこととなったのです。

短命に終わった合議制でしたが、将軍の専横(せんおう)を封じ、幕府崩壊の危機を回避できたのは大きな成果でした。こののち将軍家の影響力は低下し、鎌倉幕府は北条氏による「執権政治」へと突き進んでいくことになります。