204_北条時政

「北条時政」(ほうじょうときまさ)は「北条政子」(ほうじょうまさこ)の父で、「13人の合議制」にも息子「北条義時」(ほうじょうよしとき)とともに参加し、のちに鎌倉幕府初代執権に就任したとして知られています。北条時政の前半生は謎に包まれており、鎌倉時代に編纂された日本の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ)にも記載がありません。しかし、1159年(平治元年)に起きた平治の乱で敗死した「源義朝」(みなもとのよしとも)の嫡子「源頼朝」(みなもとのよりとも)が伊豆国へ流刑となり、北条時政は源頼朝の監視役に。この源頼朝との出会いによって、北条時政は波乱に満ちた人生を送ることになるのです。北条時政の人生とその生きざまについて、解説します。

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北条時政とは

謎が多い前半生

北条時政の出自について、あまり多くのことは分かっていません。一族の先祖は「桓武天皇」(かんむてんのう)の直系「平直方」(たいらのなおかた)と言われています。

また、北条時政の父は伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)の豪族「北条時方」(ほうじょうときかた)あるいは「北条時兼」(ほうじょうときかね)、母は「伊豆為房」(いずためふさ)の娘で、1138年(保延4年)に生まれたと伝わるのみです。

吾妻鏡」にも記載がなく、特に知られた存在ではなかったことが窺えます。

源頼朝の監視役に任命される

1160年(永暦元年)、北条時政は突然歴史の表舞台に登場します。

「平治の乱」で平家と戦った「源義朝」(みなもとのよしとも)が討死、その嫡子「源頼朝」(みなもとのよりとも)が伊豆に流刑となり、地元豪族である北条時政が監視役を仰せつかったのです。このとき、北条時政23歳、源頼朝14歳でした。

娘・北条政子の婚姻が人生の転機に

北条時政の娘・北条政子(ほうじょうまさこ)は成長するにつれ、流人である源頼朝との結婚を願うようになります。

しかし、先に述べたように北条氏は平氏の家系で、源氏の跡取りとの婚姻など許されるはずもありません。当然、北条時政は2人の婚姻に猛反対しますが、北条政子は諦めず、駆け落ち同然で源頼朝の妻となります。

ついに北条時政も折れ、源頼朝の後ろ盾になることを決めました。

源平合戦に参戦、歴史の表舞台へ

源頼朝とともに挙兵

204_1180年(治承4年)の関東勢力図
1180年(治承4年)の関東勢力図

1180年(治承4年)、源頼朝のもとに「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が発した、「平家追討」の令旨(りょうじ:皇太子などの命令を伝える文書)が届きます。

当初、源頼朝は事態を静観しようと考えました。しかし、平氏の追求が我が身に迫っていることを知り、挙兵を決意。北条時政とともに策を練り「伊豆国目代」(もくだい:地方官の代理人)「山木兼隆」(やまきかねたか)を急襲、伊豆国を掌握して豪族達を従えていきます。これが治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)の始まりです。

北条時政も長男「北条宗時」(ほうじょうむねとき)、次男・北条義時とともに参戦。平氏の「大庭景親」(おおばかげちか)の大軍とはわずかな手勢で対峙、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を張りました。

しかし、背後から進軍してきた「伊東祐親」(いとうすけちか)勢に挟み撃ちにされてしまいます。「三浦義澄」(みうらよしずみ)の援軍も間に合わず、長男・北条宗時が戦死。北条時政は次男の北条義時とともに何とか海路を脱出。

その後、甲斐国(現在の山梨県)で甲斐源氏の「武田信義」(たけだのぶよし)らと合流し、ともに駿河国(現在の静岡県中部)を攻め、これを手中に収めました。

源頼朝も進軍しながら東国武士達を味方に付け、次第に大軍へと膨れ上がっていきます。

平清盛」(たいらのきよもり)は討伐軍を差し向けますが、士気が上がらない平家軍は駿河国富士川に布陣するも、 源頼朝率いる大軍を前にするとろくに交戦しないまま敗走、「富士川の戦い」は終結しました。

鎌倉幕府の成立に尽力

1185年(元暦2年/寿永4年)に「壇ノ浦の戦い」(現在の山口県下関市)で平家が滅亡、約5年続いた治承・寿永の乱は終わりを迎えます。

その後、源頼朝の弟「源義経」(みなもとのよしつね)が兄に背き、源頼朝追討の院宣(上皇または法皇の命を受けて出す文書)を後白河法皇(かつての後白河天皇)に要請。

しかし、兄弟争いは兄に軍配が上がり、源義経討伐後、北条時政は1,000騎を従えて上洛、後白河法皇に源頼朝の怒りを伝えます。その上で「守護」(しゅご:国ごとに設置された軍事指揮官・行政官)、「地頭」(じとう:幕府によって任官された荘官職)の設置許可を迫り、勅許を得ることに成功し、守護・地頭の任免権を得ることで国家運営の体制作りは大きく前進しました。このときの北条時政の仕事ぶりは「京都守護」と呼ばれるほど高く評価されたと言います。

そして、1192年(建久3年)、源頼朝は征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が誕生しました。

2代将軍の代に設立した13人の合議制に参加

ようやく実現した武家政権でしたが、1199年(正治元年)、源頼朝は53歳で急逝してしまいます。

次期将軍に就任したのは北条政子の息子である「源頼家」(みなもとのよりいえ)で、このときまだ18歳。武芸の達人であったものの、政権運営では専横(せんおう:わがままで横暴なふるまいや、態度のこと)が目立ち、御家人から不満の声が上がるようになりました。

北条時政は、有力御家人達と計らって、将軍が直接訴訟を取り扱うことを禁じ、有力御家人13人が取り次ぐものと定めた「13人の合議制」を発足させます。

しかし、1年も経たないうちに権力争いから「梶原景時」(かじわらのかげとき)が失脚、翌年には2名が病死し、合議制は頓挫してしまいました。

初代執権に就任

政敵との対立・源頼家との確執

1200年(正治2年)、北条時政は遠江守(とおとうみのかみ)に任命されます。遠江守とは、遠江国の国司(こくし/くにのつかさ:中央から派遣される行政官)のことで、源氏一門以外の御家人が国司になるのは初めてのことでした。

幕府内で依然、権勢を誇る北条氏でしたが、将軍が代替わりしたことで、将軍の外戚としての地位は比企(ひき)一族が確立。源頼家の養育係を務めた「比企能員」(ひきよしかず)が娘を輿入れさせ、2代将軍の舅となっていたのです。

源頼家が重病を患うと、後継者をめぐって両一族の対立は決定的なものとなります。比企能員が源頼家に北条時政追討を迫ったとも、北条時政が比企能員を自宅に招いて騙し討ちにしたとも言われていますが、いずれにせよ北条氏の襲撃によって比企一族は滅亡。源頼家は激怒しますが、北条政子によって修善寺に幽閉され、1年後、北条の手の者によって暗殺されてしまいました。

3代将軍を擁立し初代執権に

204_源実朝
源実朝

源頼家が幽閉されてのち、3代将軍に就任したのは弟の「源実朝」(みなもとのさねとも)でした。12歳の新将軍に代わり、政務にあたったのが祖父の北条時政です。

所領安堵の「関東下知状」(かんとうげちじょう)にも単独で署名し、また「大江広元」(おおえのひろもと)が務める政所別当(まんどころべっとう:政務・財政を司る組織の長官)に自分も就任して権限を制限するなど、幕府における自身の権力を徐々に拡大していきます。

そして1203年(建仁3年)に初代執権に就任し、北条氏による執権政治が始まることとなりました。

父子対立の末に失脚

息子・北条義時との対立

初代執権に就任し、絶大な権力を握った北条時政でしたが、後妻「牧の方」(まきのかた)に唆され、忠臣であった「畠山重忠」(はたけやましげただ)を無実の罪に陥れたことで、息子の北条義時との関係が悪化します。

さらに牧の方は、孫にあたる源実朝を殺して娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を将軍の座に据えようと策謀。北条時政も後妻を止められず、自分の孫である将軍暗殺に加担することとなります。

「畠山重忠の乱」以降、義母を警戒していた北条義時・北条政子はこれを察知し、源実朝を安全な北条義時宅に迎え入れた上で、父と義母に鎌倉追放を申し渡しました。

執権職を追われることに

幕府内で孤立した北条時政は執権職を剥奪され、鎌倉を離れて伊豆国に隠居することとなり、北条義時が父の跡を継いで2代執権に就任します。

以降、北条時政が政治の表舞台に返り咲くことはなく、1215年(建保3年)に病死。享年78でした。

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