個性派が勢揃い!?戦国武将馬印カタログ
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「皆の者、いざ出陣じゃ~!!」大河ドラマや映画などで描かれる、敵味方入り乱れて大勢の兵士達が激しく戦う合戦のシーン。そこには、いくつもの旗がはためき、交錯しているさまも見られます。その中でも、武将それぞれの陣営では、旗とは異なる形をした物が目に付くことがあるのです。これは、「馬印」(うまじるし)と呼ばれる武具のひとつで、個性的な物が数多くあります。そこで今回は、どの武将がどのような馬印を用いていたのかを調べてみました。
「馬印」の前身「旗印」とは
戦国時代の合戦で用いられた幟(のぼり)は「旗印」(はたじるし)と呼ばれ、軍を率いる武将、すなわち総大将が誰であるか、そしてその所在を示すための目印として、その武将の周囲に置かれていました。
この「旗印」の意匠は、家紋はもちろんのこと、その武将が信条としていた言葉など、文字が用いられた物もあります。
例えば、「徳川家康」の「旗印」には、浄土教の用語である「厭離穢土 欣求浄土」(お[え]んりえど ごんぐじょうど:穢れたこの世を離れ、極楽浄土を求めること)という言葉が描かれていたのです。
2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」(さなだまる)や、同じく2017年(平成29年)「おんな城主 直虎」(なおとら)でも出てきていたので、目にしたことがあるかもしれません。
この他にも、文字を用いた旗印で有名な武将と言えば、家康に「関ヶ原の戦い」で敗れた「石田三成」(いしだみつなり)。
様々な「関ヶ原合戦図屏風」によれば、三成の旗印には「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)と言う言葉が書かれています。これは「ひとりが万民のために、そして万民がひとりのために尽くせば、天下の人々はすべて吉(=幸福)になれる」という意味。
この意匠はもともと「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])の一連の戦いの中で「木曽(源)義仲」(きそ[みなもとの]よしなか)を討ち取った武将「石田為久」(いしだためひさ)が、使用していた物でした。
そして、それを気に入った三成が、関ヶ原の戦いの際に、自身の旗印として用いたのではないかと考えられています。
旗印以外に馬印が出現したワケとは?
総大将の所在を示していた旗印は、敵味方を区別し、部隊を一致団結する意味がありましたが、その1番の役割は、兵士達の士気を高めること。
それと同時に、敵方に対して総大将の所在を知らせることで、その武将が率いる軍の威勢を見せ付ける物でもあったのです。
言わば、その武将がどれほど強いかを表す、自己顕示のための道具だったとも考えられます。そのため、遠くから見てもひと目で誰の印か分かるように、旗以外の形状をした物=「馬印」が出現。
その時期は、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)武田氏の戦略などを記した軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)では1546年(天文15年)、また、「織田信長」の一代記である「信長公記」(しんちょう/のぶながこうき)によれば、元亀年間(1570~1573年)頃であったと伝えられています。
どちらにしろ、日本における「天下人」としての地位を信長が築いていた頃には、馬印が戦場で用いられていたことが推測できるのです。
総大将の馬の横に立てられていたことからこのような呼称が付きましたが、名前の変化と共に、その意匠もより個性が強くなっていきました。
より強い個性を発揮!戦国武将それぞれの馬印
特に大規模な合戦において馬印は、各部隊の位置や、どの部隊が生存しているかなどを把握するための、重要な通信手段の代わりとなっていました。
また、馬印が常に総大将の位置を示していたことから、それを支える武将には、長年に亘って総大将に仕え、功績を積み重ねてきた者が選ばれています。自身の生死を賭け、総大将との運命を共にする覚悟が必要だったのです。
軍全体の象徴でもあった馬印は、まさに武将それぞれ、十人十色の個性が表されていた物。その大きさにより「大馬印」(おおうまじるし)や「小馬印」(こうまじるし)と呼び分けられており、武将によってはその両方を用いていましたが、ここからは、その中でもそれぞれの代表的な物を取り上げます。
三英傑は派手好きだった!?~「金ぴか」編
戦国時代、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)と三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)にゆかりがあり、天下統一を果たすべく奮闘した織田信長と「豊臣秀吉」、そして徳川家康。
「三英傑」(さんえいけつ)と称されるこの3人の武将の馬印に共通するのは「金色」であったこと。
現代の私達がイメージするのと同様に、馬印を金で彩ることにより、天下人にふさわしい「富」と「権威」を象徴したのかもしれません。
織田信長
[金の唐傘]
信長の時代の「かさ」と言えば、竹やイ草などで作られた直接頭に被る「笠」や、和風の傘である「唐傘」(からかさ)でした。
しかし、この信長の馬印は唐傘とは言いつつも、そのフォルムは現代の私達が使ういわゆる「洋傘」の物になっています。
南蛮貿易を推奨し、外国の新しい物を積極的に取り入れた信長のハイカラなセンスが活かされているのかも!?
もしくは、合戦中の急な雨にも信長こだわりの甲冑(鎧兜)が濡れないように、このような形の馬印を採用したのかもしれませんね。
傘の生地にあたる部分がすべて金色で塗られており、織田家の重臣達もそれに倣ったのか「丹羽長秀」(にわながひで)や「佐々成政」(さっさなりまさ)などの馬印も金一色の派手な意匠が用いられていました。
豊臣秀吉
- 大馬印:[金の軍配と朱の吹流し]
- 小馬印:[逆さ瓢箪と金の切裂]
戦国武将の中でも無類の金好き武将と言えばこの人、豊臣秀吉。
彼が天下統一を果たしたあと、京都御所内に組み立て式の黄金の茶室を運び込み、そこで同じく黄金の茶道具を用いて「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に茶を献じたことは有名です。
合戦の場でも自身の存在を余程アピールしたかったのか、秀吉の代表的な小馬印である瓢箪が金色に塗られていたことはもちろん、その下に付くひらひらした「切裂」(きりさき)と言う飾りも金色。大馬印である軍配も、本陣に複数並べた陣旗もすべて金で統一しています。敵対した武将の部隊達は、かなり眩しかったのではないでしょうか。
ちなみに、秀吉が瓢箪の意匠を馬印に用いるようになったのは「難攻不落」と言われていた「稲葉山城」(いなばやまじょう:のちの[岐阜城][現在の岐阜県岐阜市])を1567年(永禄10年)に秀吉が攻略した功により、信長から許可されたためと伝えられています。
そして後世になり、江戸時代中期の読本(よみほん)「絵本太閤記」などにより、秀吉が武功を挙げるたびに馬印へ瓢箪が追加されていくという「千成瓢箪」(せんなりひょうたん)のエピソードが創作されましたが、現在では瓢箪はひとつであったことが定説になっています。
また、小馬印のほうの意匠である軍配は、総大将が本陣を指揮する際に使われていた道具。さらにその下に付けられた吹流しは、もともとは「矢戦」(やせん:弓矢を打ち合う戦い方)などの際に、風の方向や強さを見るための物でした。
合戦に欠かせないこれらの道具を馬印の意匠として大きく表すことで、自身の戦闘能力の高さを誇示していたのかもしれません。
徳川家康
- 大馬印:金扇(きんせん)
- 小馬印:金のふくべと切裂
家康が大馬印として用いていた金扇は、1辺が優に2mを超えていたと推定される巨大な物。
室町時代から安土桃山時代における東三河地方の地域史料「牛窪記」(うしくぼき)には、この金扇は、家康に臣従していた三河国牧野氏(まきのし)が「聖眼寺」(しょうげんじ:現在の愛知県豊橋市)にある「太子堂」(たいしどう)に奉納した2本のうちのひとつであったとする伝承が記されています。
1564年(永禄7年)今川氏が統治していた、対岸の「吉田城」(よしだじょう)を家康が攻撃する際に太子堂で勝利を祈願。そのときに、同寺の住職がこの金扇を家康に献上し、それが馬印に採用されたと伝えられているのです。
小馬印である「金のふくべ」は、秀吉と家康が、主君と家臣の関係であった頃のできごとが関連していると考えられます。
秀吉の重臣であった「片桐且元」(かたぎりかつもと)の甥「片桐貞昌(石州)」(かたぎりさだまさ[せきしゅう])が記した「片桐家秘記」には、死期が近付いていることを悟った秀吉が、家康に天下の権利と自身の馬印である金のふくべを譲ることを、遺言として残したことが伝えられているのです。
さらには、まだ幼少であった秀吉の3男・秀頼が15歳から20歳になるまでのうちに、天下を治めるにふさわしい器量が備わったと家康が判断できたときには、天下とその馬印を返すと言う約束が2人の中で交わされました。
これは、あくまでも伝承であるため、このエピソードに登場する金のふくべと家康の馬印が同じ物であるかどうかは定かではありません。
しかし、ふくべ(=ユウガオ)は、秀吉が小馬印の意匠に用いていた瓢箪と同一種として分類される植物。
家康が自身の馬印とすることで、天下を治めるのは豊臣家の誰でもなく自分であるのだという気概を表していたのではないでしょうか。
なお、これらの馬印は「厭離穢土 欣求浄土」の旗印と共に、歴代の徳川将軍に受け継がれています。

三英傑の馬印
戦場で出会ったら目が点に!?~「個性が渋滞」編
武将の様々な思いが込められていたであろう馬印の中には「どうしてそれを選んだの?」と聞きたくなるような、また、戦場で初めて見たら思わず2度見してしまうような、まさに「個性が渋滞している」と言える意匠も多くありました。
しかし、1度見たら忘れられないインパクトも、強さをアピールしなければならない戦場では必要なことだったのかもしれません。
酒井忠次
[鳥毛の出し(飾り)・金の餌ふご・縮紙]
「酒井忠次」(さかいただつぐ)は「徳川四天王」の筆頭格で「徳川十六神将」(とくがわじゅうろくしんしょう)のひとりとしても名高い、家康第1の功臣。
「餌ふご」(えふご)は鷹匠が狩りの際に餌や獲物を入れておく袋や籠のような物。
忠次が自身の馬印にこのデザインを選んだのには、敵方を必ず討ち取る!という固い決意の表れと、主君の家康が無類の鷹狩り好きであったことも関係しているかもしれません。この馬印は、忠次の長男・家次(いえつぐ)にも受け継がれたと伝えられています。
大久保忠世
[金の揚羽]
「大久保忠世」(おおくぼただよ)は酒井忠次同様、家康の家臣で「徳川十六神将」に数えられるひとり。
こちらは、馬印と同じく大勢の兵士で混雑する戦場において目印となりますが、背中に指して使用する「背指物」(せざしもの)と呼ばれる物。
揚羽蝶をモチーフにしており、かなりのインパクトがありました。実際に「長篠の戦い」(ながしののたたかい)では、遠目からだと背中に羽が生えているように見えたのか、この指物が誰の物なのかを知りたいがために、信長が家康のもとへ伝令を遣わせたほど。
ちなみに弟の忠教(ただたか:通称「彦左衛門」)の指物は「銀の揚羽」だったと伝えられています。
黒田長政
[総白大吹貫]
「黒田長政」(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師として活躍した「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)の長男。
関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍の一員として、大きな武功を挙げています。
この馬印の大きさは、長さ360cm×口径150cmという、とてつもなく巨大な物。と言うことは、この吹貫(ふきぬき)を支える竿も相当長くなければ、布が地面についてしまい、合戦の邪魔になること間違いなし。
そのため、竿は360cm以上あったと考えられますが、これを支えていた武士は、どれほどの力持ちだったのでしょうか。
大道寺政繁
[金の九つ提灯]
「大道寺政繁」(だいどうじまさしげ)は、後北条氏(ごほうじょうし[うじ])3代当主・氏康(うじやす)から5代当主・氏直(うじなお)にまで仕えた武将。
甲陽軍鑑に記されていた馬印の発祥となった逸話は、実はこの九つ提灯にまつわる物。1546年(天文15年)に起きた「河越城の戦い」(かわごえじょうのたたかい)において「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)の家臣「本間近江守」(ほんまおうみのかみ)との一騎打ちに勝利した政繁が、本間の指物であった金の提灯を託されたことが、自身の馬印にした始まりと伝えられているのです。
そののち、後北条氏の武将達は、個々の目印として背中に指す小旗(=旗指物)に、提灯を付けるようになったと言われています。

個性が渋滞している馬印
コメント
コメント一覧 (19)
配下泣かせだ・・・。
兵の数が増えると確かに馬印のほうが実用的ですね。
「旗印」を持ってた人もいたんだろうなー
おもわずカキコ!
でも戦場でこんな目立つのあったら分かりやすくていいですね(^^)
1、馬印を捨てて刀で応戦
2、馬印を握り締めて諦める
馬印で個性を競うのは、戦国武将は目立ってなんぼだったんですねー
あんなのもって戦場を駆けてたのかー
材質は何だろう?
個人的には銀色のほうが好きです。
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