これであなたも最強武将に!?数字で見る合戦準備マニュアル

「下克上」が当たり前だった戦国時代。そんな乱世を生き抜いた「最強武将」と言えば、知略にも武勇にもずば抜けて長けていた「織田信長」や、「越後の龍」と称された「上杉謙信」(うえすぎけんしん)など、思い浮かぶ武将は人それぞれ。彼らの共通点を挙げるとすれば、いずれ劣らぬ軍事的手腕の持ち主であったということ。しかし武将達は、ただ闇雲に戦った訳ではなく、その裏では合戦の前に入念な下準備をしていたのです。そしてそれは、いくつかのルールや作法に則って(のっとって)行なわれていました。ここでは、軍を勝利に導くため、武将がどのように戦支度を整えていたのか、様々な数字を通して見ていきます。

一人前の武士のたしなみ「4つの武芸」

どんなに戦闘能力が高い武将でも、何もせずに初めから強くなった人はいません。もちろん、のちに「最強武将」と呼ばれた人ほど、その豪腕を振るっていた武将達の中には、初陣にして輝かしい武功を挙げたと伝えられる猛者もいます。

しかし多くの武将は、幼少の頃から師のもとで修行に励み、戦のない時期であっても日頃の鍛錬を怠らず、自身の武術を磨いていました

特に戦国時代の戦闘方式は、時代が下るにつれて集団戦となっていったため、大勢の兵を率いて指揮を執らなければならない武将は、彼らの士気を高め、リーダーとして認めてもらうための強さが求められていたのです。

甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の戦国大名であった「武田氏」(たけだし)の戦術などがまとめられた軍記である「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)では、「武芸四門」(ぶげいよんもん)と称して、戦国時代の武士が習得すべき基本となる武芸を4つ挙げています。

戦国時代の武士は、これらをすべて上手く扱えるようになって初めて、一人前として認められていました。

武芸四門


騎馬隊

騎馬隊

合戦においては、 馬上戦が主流だった戦国時代初期

騎馬隊の武士は、対峙する相手と一定の距離を保ちながら戦うため、長さのある「太刀」(たち)や「槍」(やり)を用いていました。

馬に乗りながらそれらを自在に扱うようになるのは、やはり相当の訓練が必要。武士道が「弓馬の道」(きゅうばのみち)と表現されることからも分かるように、武士にとって騎馬は、いちばんの基本であり、最重要視されていた武芸だったのです。

また、騎兵は馬が支給される訳ではなく自身で馬を所有していなければならず、予備となる替え馬も最低1頭は準備できるだけの経済力も必要でした。現代で言えば、高級車を所有するようなステータス性があったのかもしれません。

こういったことから、戦国時代の騎兵は「戦場の華」と言える存在であり、江戸時代以降も武士の身分における格によって、騎兵になることが許されるか、歩兵として戦に参加するのかが決められていたのです。


弓を射る武士

弓を射る武士

弓馬の道として、武士にとって馬以外に欠かせなかったもうひとつの武芸が 「弓」

すでに縄文時代から狩猟などで使われていた弓は、有効射程距離が50~80mほどあり、合戦での武器として、主戦力のひとつとなっていたのです。

戦国時代後半に弓と同じ「飛び道具」である鉄砲が伝来してからも、「火縄銃」であった鉄砲よりも短時間で発射の準備ができ、連射能力に優れていた弓は、変わらず有効な武器として戦場で用いられています。

また、弓の鍛錬は、実戦で仕える技術を身に付けるだけでなく、精神の修練としての役割を担っていました。そのため、刀剣・日本刀同様、武士そのものを象徴する武具として捉えられていたのです。

例えば、討ち取った敵将の首を大将が確認する「首実検」(くびじっけん)の儀式においては、右手を太刀の柄(つか:刀剣・日本刀の手で握るための部位)に置いて刀身を抜きかけ、左手では弓を杖のように持っていました。

これには、敵方がその首を奪い返しに来るかもしれない事態に備えていたという理由もありますが、刀剣・日本刀や弓を持って完全に武装することで、互いに戦った敵将への礼儀を示す意味合いもあったのです。

このように弓は、鉄砲の登場後もその存在が戦場から消えることはなく、中心的な武芸として武将達に取り組まれていました。

鉄砲

鍔どめ放し

鍔どめ放し

1543年(天文12年)という戦国時代の真っ只中、火縄銃としての「鉄砲」の製造法がヨーロッパから日本の種子島(たねがしま)に伝来すると、多くの戦国大名達が自身の軍の武力を強化するため、こぞって主要兵器を取り入れるようになります。

鉄砲は、構造が複雑でなかったことで大量生産が容易にでき、専門的な訓練が必要である弓に比べると、使用者の技術や能力などの影響を受けずにその威力を発揮でき、瞬く間に全国の戦場に広まっていったのです。

どちらかと言えば鉄砲は、大将よりも部下の立場である「足軽」(あしがる)達が主に使用しており、その有効射程距離は、弓との大差は見られなかったようですが、発射に伴う轟音は、敵方を威嚇して恐怖心を煽る効果が十分にありました。

兵法(刀・槍)


大身槍

大身槍

「兵法」(へいほう)とは、戦術や戦略、用兵などについて体系化した物を指します。

なかでも、戦国時代の武芸四門における兵法では、特に「刀」「槍」の武術について重点が置かれていました。

しかし合戦での刀は、敵に致命傷を負わせて止め(とどめ)を刺したり、相手を討ち取った証しとして首を落としたりするために用いられ、直接攻撃を与えるのには、槍のほうが主に使われていたのです。

使用法としては突き刺すイメージが強い槍ですが、それに加えて実戦では、振り下ろして叩いたり、足を振り払ったり、ときに投げて攻撃したりするのにも用いられていました。

また、集団戦術が発達していくと、騎馬の突撃に対抗するため、槍を持った足軽達が隙間なく横1列に並んで防御する「槍衾」(やりぶすま)戦法が見られるようにもなります。

武勇に優れた武将は、「大身槍」(おおみやり)と呼ばれる、「穂」(ほ:槍の刃にあたる部分)が1尺(約30.3cm)以上もある物を使って敵を威圧。

しかし、重量があって扱いづらいため、巧みに使いこなせるようになるには、かなりの修練が必要でした。

また、兵法のうち刀剣・日本刀と槍を独立させ、さらに「柔術」(じゅうじつ)を加えて「六芸」(りくげい)と称することもあります。柔術の中でも戦国武将達が用いていた戦術は、「組討」(くみうち)と呼ばれるもの。組討とは、いわゆる「取っ組み合い」のこと。

合戦で首級(しゅきゅう:討ち取った敵の首)を挙げるためには、最終的には接近戦に持ち込んだほうが有利となりますが、頑丈な甲冑(鎧兜)を身にまとっていることもあり、刀剣・日本刀や槍だけで首を落とすことはなかなか容易ではありませんでした。

そこで武将達は、最終的には武具を用いず、一気に相手を地面に組み伏せて倒し、その急所を突いて首を落としていたのです。

そのため、武芸四門に加えて、この組討を筆頭とした柔術の鍛錬も欠かさず行なっていました。

出陣式に欠かせない!縁起を担ぐ「3種の食べ物」

戦国の世は、インターネットなどが発達している現代とは異なり、敵方に関する情報収集なども簡単にはできなかった時代。

どんなに武芸の鍛錬を重ね、戦略を練っていた武将でも、その心の奥底では、本当に合戦で勝てるのかと、不安を抱えていたはず。戦場には命を賭けて赴くのですから、無理もないことです。

そのような不安を払拭するためか、出陣するまでのあいだに武将達は、徹底的に縁起を担ぐ儀式を行なっていました。

例えば、出陣する日取りは、軍師が陰陽道(おんみょうどう/おんようどう/いんようどう:中国から伝来した陰陽五行説に基づき、天文や暦数を用いて吉凶を見る占術)などで占い、吉日と出た日に決定します。

そして出陣当日には、戦勝祈願のための出陣式を行ないますが、その式次第の中でも、当時の人々の縁起にあやかりたい感情が切実に伝わるものが、「三献の儀式」(さんこんのぎしき)。

「三献」とは、現代の結婚式でも見られる「三々九度」(さんさんくど)のように、3杯の盃を交わすこと

その肴として、1杯目に「打ち鮑」(うちあわび:細く切った鮑の肉を叩いて薄く延ばし、干した物)、2杯目に「勝栗」(かちぐり:干した栗を臼でつき、渋皮と殻を取り除いた物)、3杯目には「昆布」(鮑や栗と同様に干した物)を、必ずこの順番で食べます。

と言うのは、それぞれの肴に「(敵を)打って」「勝って」「喜ぶ」意味が込められているから。

言ってしまえばダジャレですが、この感覚と方式は、現代のおせち料理などにも受け継がれていますよね。

ちなみに、この「三種の肴」が揃わなかったときには、「人切れ」の意味を込めて「ひと切れ」の漬物を食べたと伝えられています。

勝利の行方を決定付ける「6つの道具」

いよいよ合戦本番。あることをするのに必須であるひと揃いの道具のことを、種類の数に限らず「七つ道具」と言いますが、弓や槍、鉄砲など様々な武具が使われていた戦場では、合図の道具として重宝していた物、そして大将が身に着けておくべき物が、それぞれ6種類ずつありました。

戦局を大きく左右する「合図の六具」

合図の六具

合図の六具

合戦で合図や情報伝達の手段として使われていた道具は、「法螺貝」(ほらがい)、「陣鐘」(じんがね)、「陣太鼓」(じんだいこ)、「狼煙」(のろし)、「旗」(はた)、「鉄砲」(てっぽう)の6種類。

合戦への出陣日が決まると、大将は領地内の各武将に向けて、「陣触」(じんぶれ)と呼ばれる出陣命令を発します。

このとき、遠隔地には、早馬(はやうま:緊急を知らせるための使者が乗る馬)を飛ばして、「触状」(ふれじょう)と言う文書を送りますが、近場であれば、狼煙を上げたり、陣鐘や陣太鼓を鳴らしたりして招集をかけていたのです。

また、大勢の兵士達が入り乱れている合戦の最中は、大将がどんなに大声で叫んで指示を与えようとしても、喧騒のるつぼと化している戦場ではかき消されてしまいます。

そこで活躍したのが、陣鐘や陣太鼓、法螺貝といった、いわゆる「鳴り物」。高い音で鳴るこれらの道具は、騒音の中でも遠くにまで響き渡るため、大将の命令を伝えるにはぴったりの物だったのです。

これらの音の回数や長さによって、あらかじめどのように動くかを決めておき、兵士達はそれぞれの音を聞き分け、次の行動に移っていました。

カリスマ性と統率力の証し「大将の六具」

合戦における大将の仕事のメインは、戦場で兵士達を統率すること。

そのためには、戦況に合わせて的確な指示を出すだけでなく、例え負け戦になろうとも兵士達の士気を高め、自身に付いてきてもらうだけのカリスマ性が求められます。

それらを手助けしたのが、大将の六具と称される6つの道具。

どれをもって大将の六具とするのかには諸説ありますが、そのうちのひとつの説では、「太刀」「鎧」(よろい)、「采配」(さいはい)、「軍配団扇」(ぐんばいうちわ:いわゆる[軍配])、「軍扇」(ぐんせん)、「鞭」が挙げられています。

これらを身に着けることは、大将である証しでもあったのです。

現代でもたくさんの人に指図することを「采配を振る」と言いますが、細い短冊状の白い布を房(ふさ)のようにして柄(え)が付けられた道具を采配と呼び、これを振ったり掲げたりすることで、軍勢の指揮を執っていました。軍配や軍扇も、采配と同様に陣中での指揮に用いられています。

なかでも軍配は、指揮を執るのみならず、軍師が方角などの吉凶を占う道具でもあった物。それだけではなく、なんと武器としても使われていた伝説があります。

それは、1561年(永禄4年)に起こった「第4次川中島の戦い」でのこと。

上杉謙信」と一騎打ちとなった「武田信玄」(たけだしんげん)が、信玄の「三太刀」(さんだち:3回に亘って切り付けられること)を軍配で受けたことが伝えられているのです。

これはあくまで伝説であり、その真相のほどは定かではありませんが、信玄が大将にふさわしい武力の持ち主であったことが窺えるエピソードだと言えます。

ここまでご紹介してきた合戦準備に必要な物や儀式の数々は、実はまだほんの一部分。

せっかく準備がすべて整っても、出陣式の最後に馬が前進するのをためらったり、馬が大きくいなないたりするなどの素振りを少しでも見せたときには、仕切り直して式を最初から行なったと言います。

武将の運命を握る合戦は、戦いの最中だけでなく、その準備に際しても油断することはできなかったのです。最強武将への道は、想像以上に険しいものだったのかもしれませんね。