嘉納治五郎と「韋駄天」(いだてん)

スポーツ好きの方なら、「嘉納治五郎」(かのうじごろう)の名を、一度ならず耳にしたことがあるのではないでしょうか。最も良く知られているのは、柔道の創始者としての人物像だと思います。日本古来の武道のひとつである「柔術」(じゅうじゅつ)を、誰もが親しめるスポーツの「柔道」へと昇華させ、普及に努めました。治五郎の功績は、柔道界にとどまりません。東洋人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員として、日本でのオリンピックの認知度アップに尽力したのです。そこには、日本人初のオリンピアン「いだてん」こと「金栗四三」(かなくりしそう)選手との出会いもありました。そして、初めての東京オリンピック開催実現へ……!今回は、嘉納治五郎の先進的な人となりと、金栗四三への惜しみない支援について、紐解いていきます。

嘉納治五郎「柔道の父」となる!

両親の教えは「人に尽くすこと」と「新しい物を取り入れること」

嘉納治五郎は、1860年(万延元年)10月18日、父「嘉納治朗作希芝」(かのうじろさくまれしば)、母「定子」(さだこ)の3男として兵庫県で誕生。

東京で運輸業に携わっていた治朗作が、とにかく忙しいとのことで、幼い治五郎の教育はおおむね定子に託されました。

母の定子は、優しく、芯の強い人だったと言われています。それは、困った人を放っておけず、何を置いても親身になって支えるほど。

息子に対しても、「人に尽くすこと」を心掛けるよう教えています。厳しい一面もあり、治五郎が他人への思いやりを忘れたときは、十分に反省するまで許しませんでした。

教育熱心な定子でしたが、治五郎が9歳のときに他界してしまいます。しかし、母の教えは、治五郎の心を育むことに大きく寄与したのです。

母を亡くした治五郎は、父・治朗作に伴われて東京で暮らすことになります。当時の治朗作は、明治政府から仕事を請け、船を使った運輸業を営んでいました。

探究心あふれる人物で、「新しい物を積極的に取り入れる」をモットーに、外国から伝わって来る文化や学問を熱心に学んでいたそうです。

そんな父の姿を見て、治五郎は柔軟な発想力を身に付けていったのでしょう。のちの治五郎が、流派は違っていても長所はどんどん取り入れて、独自のスタイルを確立していったところなどに、治朗作からの影響がうかがえます。

非力な者でも強くなれる「柔術」の道へ

1873年(明治6年)、治五郎は13歳のとき、外国人教師中心の育英義塾(のちの育英高校)に入塾。

父のもとで書道や英語を学んでいた治五郎は、すぐに優秀な成績を収めるようになります。

ところが、それを妬んだ生徒達からのいじめを受けることになってしまったのです。

いつの時代にも卑劣な人間はいるものですが、どちらかと言えば虚弱な体質で、小柄(成人したときの身長が158cm)だった治五郎は、力ではまったく敵いませんでした。

自分自身が非力であったことにも、腕力に物言わせて相手をねじ伏せようとする古い考え方が残っていることにも、治五郎はショックを受けます。

柔術

柔術

そんなとき、治五郎の気持ちを捉えたのが、体の小さな者でも大きな者に勝てると言う 「柔術」でした。

治五郎は柔術を学びたいと考え、教えてくれる師匠を探しますが、なかなか思うようにいきません。誰もが「古い柔術など学ぶ必要はない」と、けんもほろろ。

時代は文明開化の明治。武士のたしなみである柔術は、もはや時代遅れとして顧みられなくなっていたのです。

あきらめ切れない治五郎は、書物を通じて自力で学ぶ道を探ります。

治五郎が柔術の師とめぐり会えたのは、1877年(明治10年)、17歳のときでした。「天神真楊流」(てんじんしんようりゅう)柔術の「福田八之助」(ふくだはちのすけ)に入門を認められます。

天神真楊流は、のどを絞めたり、押し伏せたりする実戦的な柔術を得意としていました。

あるとき、ものの見事に投げられた治五郎は、師匠の八之助に「これはどうやって投げるのですか」と尋ねます。師匠の答えは、「数をこなせば分かるようになる」

この言葉を受けて、もともと負けん気の強い治五郎は、どれだけ投げられようとも立ち上がり、柔術の技を体にしみ込ませるべく必死に取り組みます。同時に、柔術を理論的にも理解するために、書物にて研究を重ねました。

めきめきと腕を上げた治五郎は、柔術を始めるきっかけとなった「いじめに対抗したい」と言う気持ちが小さくなっていることに気づきます。

柔術は、体を鍛え、技を会得するだけでなく、心すら成長させてくれるのだと確信する瞬間でした。

柔術から「柔道」を考案。そして「講道館」を設立


柔道

柔道

1879年(明治12年)、治五郎が19歳のときに、師である福田八之助が52歳で急逝。遺族より秘伝書を託されると、師の意志を継ぎ、福田道場の指導者となります。

19歳で指導者を任されるとは、現代の感覚からすると早いようにも思えますが、治五郎の技術はすでに高いレベルにあり、訪日した前アメリカ合衆国大統領「ユリシーズ・グラント」に柔術を披露するなど、その実力は折紙付き。指導者となったことで、ますます修行に没頭していくのでした。

1881年(明治14年)、21歳になった治五郎は、「起倒流」(きとうりゅう)の師範「飯久保恒年」(いいくぼつねとし)に師事します。

天神真楊流とはまったく異なる特徴を持っていた起倒流は、治五郎の向学心を刺激したのでしょう、研究にも熱が入りました。厳しい修行を乗り越えた治五郎は、起倒流の免許皆伝を受けます。この頃の治五郎は、柔道家の間で評判になるほど強かったそうです。

ふたつの流派を会得したことで、様々な流派に、それぞれの良さがあることを知ります。

また、修行を通して人間的にも成長できると常々感じていた治五郎は、柔術はもっと多くの人に開かれるべきだと考えます。

しかし、「柔術はもう古い」と認識されていたこの時代、人々にすんなり受け入れられるとは考えにくく、このまま廃れてしまうのではないかと危ぶまれました。

そこで治五郎は発想を閃かせます。「新しい時代にふさわしい柔術を、自分の手で生み出そう」

こうして治五郎が考案したのが、柔術に広く親しまれているスポーツとしての要素を取り入れた「柔道」です。戦で用いるための柔術ではなく、純粋にスポーツとして競技できる柔道は、こうして誕生したのでした。

治五郎は、柔道の普及のために、東京の下谷北稲荷町にある「永昌寺」(えいしょうじ)の境内に「講道館」(こうどうかん)と名付けた道場を設立します。

講道館

講道館

グローバルに展開していく柔道

日本国内で柔道の普及に努める治五郎は、次第に世界へも目を向けていきました

29歳で西洋の教育事業視察のためにヨーロッパへ派遣された際、航海中の船上で、居並ぶ外国人を前に柔道の形や技を披露。小柄な治五郎が、大柄な相手をいとも簡単に投げる様子を見て、外国人達は衝撃を受け、講道館柔道に興味を持ったと言われています。

治五郎の弟子達も海外へ渡り、柔道の実演を披露することで、海外での認知度は高まっていきました。来日する各国の大使や公使、軍人、教授らは、こぞって講道館を見学するようになります。

そして、1893年(明治26年)に初めてイギリス人が講道館に入門すると、そのあと、アメリカやインド、中国、フランス、カナダといった国の人々も講道館の門を叩いたのでした。

講道館で修行を積んだこれらの門下生が、帰国してからも変わらず取り組みを続けたことで、柔道はさらに世界中に知られるようになり、普及していったのではないかと考えられています。

柔道の競技者が世界中に広まるにしたがって、世界各国から、日本の柔道指導者を自国へ派遣してほしいと要請されるようになりました。治五郎はその声に応え、優秀な指導者を海外へ送り出します

外国では、文化の違いや、考え方の差を乗り越えるのは、一筋縄ではなかったはずです。柔道は、勝敗だけにこだわることも、強さのみを求めることも目的としません

相手を敬い、感謝の念を持ち、助け合ってより良い世の中を目指す「自他共栄」の精神こそが柔道の魅力。人間的な成長をないがしろにするなら、それは柔道ではないのです。

治五郎の弟子達は、こうした講道館柔道の極意を伝えるために心を砕いたのでした。

柔道の崇高な精神は、治五郎やその弟子達の努力の賜物として、現在まで日本と、世界各国で受け継がれていると思います。

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東京オリンピック開催を目指した嘉納治五郎

日本初のオリンピアン・マラソン選手「金栗四三」との出会い

古代ギリシャで行なわれていた競技大会を、スポーツの祭典として現代によみがえらせたのは、フランスの教育者で、「近代オリンピックの父」こと、「ピエール・ド・クーベルタン」男爵です。

クーベルタン男爵と賛同者達は「国際オリンピック委員会」(以下IOC委員会)を発足。1896年(明治29年)のアテネオリンピック開催が実現します。

ピエール・ド・クーベルタン男爵

ピエール・ド・クーベルタン男爵

クーベルタン男爵とIOC委員会は、活動を世界規模に広げるために、東洋人からもIOC委員を選ぶべきだと考えました。そして、柔道を通してスポーツの発展に貢献している 嘉納治五郎に、IOC委員への就任を依頼

その依頼の手紙には、「スポーツによる世界平和の実現」とありました。治五郎は、この理念に共感してIOC委員を引き受けることに。

日本は、スウェーデンのストックホルムで開催される第5回オリンピックへの参加が決まります。

ここで治五郎は、問題に行き当たりました。当時の日本では、西洋のスポーツと言えば野球とテニスくらいしか知られていなかったのです。オリンピックにいたっては「なにそれ?」状態。

そこで治五郎は、オリンピックについて国民に知って貰うために「大日本体育協会」を設立し、啓発活動を始めます。さらに、オリンピックに参加する競技も、分かりやすく陸上競技に絞りました。

1911年(明治44年)、東京の羽田海岸グラウンドでオリンピックの予選会が開催されます。なかでも、マラソンは最も注目を集めた競技で、約200名が参加。ここで、当時の世界記録を27分も上回る記録を出したのが、「金栗四三」(かなくりしそう)選手です。

治五郎が校長を勤める東京高等師範学校の生徒であり、ご存知、NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」(いだてん とうきょうオリンピックばなし)の主人公。のちに「日本マラソンの父」と称される人物です。

ちなみに、「韋駄天」(いだてん)とは、バラモン教の神で、仏教の守護者のこと。仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨)を盗んで逃げた魔物を、とことん走って追い詰め、捕らえたことから、足の速い神とされ、この伝説から、足の速い人を韋駄天と呼ぶようになったのです。

圧倒的な記録をたたき出した金栗選手に期待は高まり、オリンピックの代表として選ばれます。ところが、金栗選手は代表を辞退してしまうのです。その理由は、渡航費がかかり過ぎること。当時、1,800円と言われた渡航費は、現在の貨幣価値に換算するとおよそ500万円。とても個人が工面できる金額ではありません。

ここでも決してあきらめない治五郎は、有能な金栗選手のために自ら金栗選手の後援会を立ち上げ、寄付金を募りました。集まった寄付金を渡航費にあて、金栗選手はオリンピックに参加します。日本人初のオリンピアン誕生。「いだてん」が、いよいよ世界へと駆け出します。

迎えたストックホルム・オリンピックのマラソン競技で、金栗選手は全力を尽くすものの、残念ながら、期待に応える結果は残せませんでした。マラソン競技が行なわれたその日のストックホルムは、最高気温が40℃という猛暑を記録し、参加選手のおよそ半数が途中棄権するほど、過酷なコンディションになったそうです。

結果を残せなかったとは言え、日本人選手が世界的な舞台で奮闘する姿は、日本に大きな感動をもたらしました。ストックホルム・オリンピックがきっかけとなって、国民のオリンピックへの関心が高まったことは、非常に有意義だったと言えます。

この、ストックホルム・オリンピックには、心温まる後日談があるのです。

実は、金栗選手はマラソン競技を棄権していませんでした。正式な棄権の意志をオリンピック委員会に伝えていなかったため、「競技中の失踪により行方不明」とされていたのです。

その事実に気付いたスウェーデンのオリンピック委員会は、1967年(昭和42年)3月に開かれたストックホルム・オリンピック開催55周年を記念する式典に金栗選手を招待。ストックホルムへ赴いた金栗選手は、競技場をゆっくりと走って、用意されたゴールテープを切りました。

これをもって、第5回ストックホルム・オリンピックのすべての日程を終了とアナウンスされます。記録は、54年8ヵ月6日5時間32分20秒3。オリンピックのマラソン競技史上最も遅い記録であり、今後この記録が破られることは、おそらくないでしょう。

金栗選手は、ゴールしたあとに「長い道のりでした。この間に孫が10人できました」とコメントしています。

3度のオリンピック出場を果たしたのち、金栗選手は、治五郎同様スポーツの振興に貢献しました。特に、女子スポーツの普及と発展に力を尽くしたのです。

現在の女子選手の華々しい活躍は、彼の努力あればこそと言えるでしょう。これには治五郎も大いに喜び、力強く感じたに違いありません。

金栗選手の功績については、「金栗四三ミュージアム」熊本県玉名郡和水町)でも詳しく知ることができます。

金栗選手がどのようにマラソンの才能を開花させたのか、また、出場したストックホルム、アントワープ、パリ・オリンピックでのマラソン競技のエピソードなど、貴重な当時の写真やCG映像などで紹介。マラソンファンには、見逃せない展示が盛りだくさんです。

<金栗四三ミュージアム 公式ホームページ>
http://www.kanakurishiso.jp/

そして治五郎には、最後の大仕事が残っていました。東京オリンピック開催の実現です。

東京へのオリンピック誘致を成し遂げるも……

ストックホルム・オリンピック以降、日本人選手のオリンピック参加は珍しいことではなくなりました。日本人選手の活躍と比例するように、日本国民のオリンピックへの関心は高まっていきます。

ボルテージが上がれば、やはりオリンピックの自国開催を望む声が出るのも無理はありません。すでに晩年に差し掛かっていた治五郎ですが、こうした声に応えるために奔走します。

しかし、当時の日本は満州事変から日中戦争へいたる軍事行動の渦中にあり、世界から孤立しつつありました。日本以外の国では、当然のことながらオリンピックの東京開催に反対する意見が強かったのです。

それでも治五郎はあきらめませんでした。ドイツのベルリンで、オリンピックの開催地を決める投票が行なわれることになると、現地へ乗り込み、東京開催を訴えます。

投票の結果は、事前の日本不利と言う予想を覆し、東京での開催が決定。IOC委員の多くは、日本という国そのものには不信を抱きながらも、治五郎の熱意に心を動かされたのです。治五郎と日本国民は、夢へ向かって大きく歩みを進めました。

それから2年後、エジプトのカイロで行なわれたIOC総会でオリンピックの東京開催が正式に認められます。

「オリンピックを通して、平和な世界を実現しよう」

治五郎はラジオに声を乗せて、国民に語りかけました。人々の胸に響いたこの言葉は、治五郎の最後のメッセージとなります。

カイロからの帰国の途中、治五郎は船上で肺炎にかかり意識を失ってしまいました。そして、再び目を覚ますことなく、77年の生涯を閉じたのです。

結局、治五郎が招致に尽力した1940年の東京オリンピックは幻となりました。日中戦争の長期化や軍部の反対があって、日本政府が開催権を返上。日本初、そしてアジア初のオリンピック開催は、1964年の東京を待つこととなったのです。


2020年東京オリンピック

2020年東京オリンピック

来年は 「2020年東京オリンピック」が開催されます。オリンピックへ向けた現在の盛り上がりを知ることができたなら、きっと嘉納治五郎は喜んでくれるでしょう。アスリートひとりひとりの活躍を応援しながら、治五郎の努力と功績に、想いを馳せてみたいと思っています。