秀吉の愛刀「大坂長義」にまつわる2人の武将

「本能寺の変」により「織田信長」が倒れたあと、1590年(天正18年)に天下統一を果たした「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)。その陰にあったのは、秀吉が好んで蒐集(しゅうしゅう:研究や趣味など、特定の目的のためにある物を集めること)していた「名物」と称される茶器や名刀の数々でした。と言うのは、自身の家臣や領地の武将、そしてときには農民に至るまで、お金に糸目を付けることなく、これらのコレクションを分け与えることで人々の心を掌握していったのです。特に刀剣・日本刀は、現代であれば「お宝鑑定」のテレビ番組に何度も出演できそうなほど多くの物を集めていましたが、ここでは、その中でも「大坂長義」(おおさかちょうぎ)の異名を取る短刀について、それを受け継いだとされる2人の武将と共にご紹介します。

長義と秀吉には共通点があった!?

「大坂長義」と称される短刀の銘は、表に「備州長船住長義」(びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)、そして裏には「正平十五年五月日」(しょうへいじゅうごねんごがつひ)と文字が切られています。

これは、現在の岡山県瀬戸内市にあたる備州長船在住の刀工「長義」(ながよし/ちょうぎ)が、正平十五年(1360年)の5月に制作した刀剣・日本刀であることを表した物。

長義と言えば、鎌倉時代中期から後期に興り、多数の名工を世に送り出した備前長船派の中でも、「備前伝」(びぜんでん)の鍛法に「相州伝」(そうしゅうでん:鎌倉時代中期以降に、相模国[さがみのくに:現在の神奈川県]で発生した伝法)の物を加味した「相伝備前」(そうでんびぜん)を代表する南北朝期の刀工。

長義の在銘作である大坂長義は、「大磨上無銘」(銘がなくなってしまうほどに茎[なかご]を削って、刀身を短くすること)の物が多い同工の作品の中で、非常に貴重な1振だと言えます。

短刀 銘 備州長船住長義 正平十五年五月日

短刀 銘 備州長船住長義 正平十五年五月日

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
南北朝時代 重要文化財
(旧国宝)
豊臣秀吉→
前田利家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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また長義は、同じく相伝備前で「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)にも列せられている刀工「兼光」(かねみつ)に相並ぶほどの技量の持ち主と評されており、相州伝を完成させた名工「正宗」(まさむね)の10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりにも数えられているのです。

そんな長義は、名刀の代名詞ともされる備前長船派の中でも、ときに「異端児」の扱いを受けることがあります。いくら相伝備前とは言っても、例えば兼光などは、備前伝における焼き入れや鍛錬の方法は原則として守っていました。

しかし長義は、杢目(もくめ)鍛えに匂(におい)本位の丁子乱(ちょうじみだれ)と言う備前伝の特徴をすべて捨て去り、備前伝の焼き入れや鍛錬の方法に反してまで、相州伝の作風である板目鍛えに荒沸(あらにえ)本位の互の目乱(ぐのめみだれ)を焼いていたのです。

大坂長義においてもその特徴は顕著に見られ、板目肌の地鉄(じがね)と大きく乱れた刃文(はもん)は、備前物からは最も遠く、地刃共に沸が強くなっています。

豊臣秀吉がどのようにして、この大坂長義を手に入れたかは定かではありません。しかし、秀吉自身も、その出自は明らかにはされていませんが、下層民の家から天下人へと成り上がった戦国武将の異端児と言える人物。

「他の備前長船鍛冶とは違った物を作る!」と言う長義の強い意志すら感じさせる独特の作風に共鳴したことで、自身の愛刀としていたのかもしれませんね。

秀吉が所蔵していた大坂長義は、江戸時代に加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)と能登国(のとのくに:現在の石川県北部)、そして越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)の3ヵ国を所領とした「加賀藩」(かがはん)藩主の前田家に伝わることとなり、長いあいだ同家の家宝とされていました。前田家の手に渡ったときの場所が大坂にゆかりがあったことから、この短刀に大坂長義と言う別称が付けられています。

しかし、その経緯がどのようなものであったのか、また、きっかけとなった前田家の武将は誰であったのかということについては、はっきりとは分かっておらず、いくつか説があるのです。

ここからは、その中でも有力視されている前田家の2人の武将について見ていくことにします。

大坂長義 由来の武将

前田利家 ~厚い信頼と友情の証し

前田利家

前田利家

大坂長義と名付けられた理由とする説のひとつに、豊臣政権の末期における「五大老」(ごたいろう)のひとりであった武将「前田利家」(まえだとしいえ)が、大坂城中にて同短刀を秀吉より賜ったからという説があります。

しかし、この当時、主君から直々に愛刀を拝領するためには、なんらかの大きな武功を挙げるなど、高価な褒美に値するほどの働きをしない限りは、なかなかあり得ないこと。

もちろん利家は、豊臣政権の顧問のような立場でその運営に携わるだけでなく、秀吉の死後にも豊臣政権が継続するように、秀吉の幼い跡継ぎであった秀頼を後見する役割も担っていた五大老のひとりに選ばれているのですから、秀吉から寄せられていた信頼は相当なものであったことは間違いありません。

ところが利家は、秀吉に付き従う以前の1583年(天正11年)、秀吉と同じく織田信長に仕えていた「柴田勝家」(しばたかついえ)と、秀吉とのあいだに起こった「賤ヶ岳の戦い」(しずがだけのたたかい)において柴田軍側に属しています。

普通に考えれば利家は、例え秀吉の家臣になったとしても、いつ寝返るか分からないと疑いをかけられるはずです。それなのになぜ利家は、刀剣・日本刀を秀吉から与えられるほどの信頼を得ることができていたのでしょうか。

その理由は、秀吉と利家それぞれの青年期にまで遡れば見えてきます。利家は1551年(天文20年)、14歳の頃から「小姓」(こしょう:将軍や主君のそばに仕え、身辺の雑務などを世話した者。主に若年者が務めた)として、そして秀吉は1554年(天文23年)に「小者」(こもの:武家において雑役を担った者)として、18歳頃から信長に仕えていました。

しかし利家は豪族、秀吉は下層民と言う身分の異なる出身。それなのに2人は、身分の違いなど気にせずに、互いに仲を深めていたのです。

利家は、巧みに槍を操っていたことから「槍の又左」(やりのまたざ:又左は利家の通称:又左衛門[またざえもん]から)との異名を取り、周囲からは「傾奇者」(かぶきもの)と揶揄されるほど型破りな行動を繰り返していました。

武勇に優れ、また常識に囚われない性格が気に入られたのか、信長からの寵愛を受けていた利家。

そのため秀吉は、そんな利家の懐に入ることで、自身に対する信長の評価を上げようとしていたことも考えられます。

しかしその反面、主君の信長と同じくらい豪快な利家の人柄に魅力を感じ、自然と懇意な間柄になったのかもしれません。

一方で利家は、子宝に長いあいだ恵まれていなかった秀吉に、彼の4女であった「豪姫」(ごうひめ)を養女として出していますが、これは、利家が秀吉のことをどれほど思い、慕っていたのかが窺えるエピソードのひとつです。

秀吉もまた、そんな利家の誠実な人柄を、自身の「遺言覚書」(ゆいごんおぼえがき)の中で「律義者」と評していますが、それは、実は賤ヶ岳の戦いで、利家が取っていた行動にも表れています。

同合戦がピークを迎えたタイミングで利家は突然軍を撤退させ、その結果、軍配が秀吉側に上がることになったのです。秀吉と敵対する立場にあった利家が、このような行動に出たことについては様々に推測されていますが、利家は、秀吉との「友情」と勝家への「忠誠心」を天秤にかけ、「友情」を取ったと言えます。

もしかすると、秀吉が愛刀である大坂長義を利家に譲ったとされるのは、2人が主君と家臣の関係を超えて、「親友」あるいは「盟友」と呼べる間柄にあったからかもしれないですね。

前田利常 ~鼻毛のバカ殿は文化大名!?

前田利常

前田利常

大坂長義の由来となったもうひとりの武将は、利家の4男で加賀藩2代藩主も務めた「前田利常」(まえだとしつね)。

利常がこの長義を大坂の地にて買い求めたことにちなんでいるとされています。この短刀は加賀前田家に長く伝来し、1931年(昭和6年)には、同家16代当主「前田利為」(まえだとしなり)の名義によって、旧国宝重要文化財)に指定されたほど、美術的価値が高い物。

大坂長義が父・利家と親交の深かった秀吉にゆかりがあった物であることを知ったうえで、利常が入手したかどうかは分かっていませんが、その審美眼に間違いがなかったことは確か。

しかし、そんな利常は、父・利家譲りの傾奇者気質であっただけでなく、周囲から「鼻毛のバカ殿」と笑われていた武将でもあったのです。

しかも、その利常の「鼻毛」と芸術に対する「審美眼」が加賀前田家を途絶えさせることなく守っていくことに、ひと役買っていたと伝えられています。鼻毛と審美眼と言う2つの相反する物、さらには「お家存続」には一見無関係にも思える物が、どのようにしてそのような役目を果たしていたのでしょうか。

利常が鼻毛を伸ばしたワケとは
結論から言えば、 「徳川幕府の警戒の目を欺く(あざむく)ため」と言うことがその理由。

利常は1605年(慶長10年)、わずか12歳のときに家督を相続していますが、このとき、すでに加賀藩は120万石を領する大大名。これは、日本全国の大名の中で、徳川家に次ぐ第2位の石高でした。

前田家は外様大名ではありましたが、徳川家にとっては、いつ天下を奪いに来るのか油断ができない、脅威となる存在でもあったのです。

実際に徳川家康が亡くなる間際、見舞いに訪れた利常に向かって「秀忠(ひでただ:家康の3男で江戸幕府2代将軍)にお前を殺すように再三言っておったのだが、遂にあいつは受け入れなかった。ゆえにわしに恩義を感じる必要はないが、秀忠への恩義は忘れてはならないぞ」と告白しています。

さらには、秀忠が将軍であった時代、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)に基づいて城の修理は許可制となっていましたが、利常は、居城としていた「金沢城」(現在の石川県金沢市)が火事になってしまったことにより無許可で補修工事を行なったため、これに謀反の疑いがかけられ、咎められてしまうことに。

金沢城

金沢城


嫡男の「光高」(みつたか)と共に江戸へ赴き、ひたすら頭を下げたことで何とかことなきを得ましたが、徳川家から監視の目が向けられていることを確信した利常は、ここで鼻毛を伸ばすことを決意。

自ら「バカ殿」を演じることで、徳川家の警戒心を解こうと考えたのです。

真意を知らずにあきれてしまった利常の家臣達は、あの手この手を使って主君の鼻毛を抜かせようと苦心しましたが、「この鼻毛は、加賀・能登・越中の3国を守るための物」と聞く耳を持たず。利常には、なんと参勤交代で江戸城を訪れたときにも、鼻毛を1寸(約3cm)伸ばしたまま、城中をうろついていたエピソードもあります。

傾奇者であったゆえに、周囲の目には奇行だと映ったかもしれませんが、利常は前田家を守るためなら、自身のプライドを捨てることも惜しまなかったのです。

文化政策によって培われた利常の「審美眼」
鼻毛に加えてもうひとつ、加賀前田家が 「お家取り潰し」にならないようにするために、利常が用いた審美眼は、利常自身が推進した文化政策によって磨かれたもの。

秀吉は、自身の趣味だけでなく、人々の心を引き付けておくために茶器や刀剣・日本刀を集めていましたが、利常は、加賀藩の膨大な財力を注ぎ、数多くの美術工芸品を購入することで、反旗を翻す意志など持たずに戦を放棄し、また暗に、自身が天下を取れるほどの大名であることも示していたのです。

また利常は、茶道具や陶磁器などの蒐集に尽力したのみならず、工芸職人の育成にも力を入れました。

もともと金沢城内には、甲冑(鎧兜)や武具の制作、及び修理などを手がける「御細工所」(おさいくしょ)と呼ばれる工房がありましたが、利常はこれを整備・拡充し、京都から蒔絵師の「五十嵐道甫」(いがらしどうほ)や、装剣金工の「後藤顕乗」(ごとうけんじょう)らを招き、後継者の指導に当たらせています。

やがて加賀の美術工芸は、京都や江戸に勝るとも劣らないほどの勢いで発展。

そしてそれは、「加賀友禅」(かがゆうぜん)や「九谷焼」(くたにやき)など、現代にも伝わる伝統工芸品に受け継がれているのです。

加賀友禅

加賀友禅

この大坂長義もそんな文化政策の一環で、利常が手に入れたとされているのかもしれません。

以上のように、利家と利常、大坂長義にまつわる武将がどちらであったかは不明ですが、両者に言えることは、天下人となった秀吉に匹敵するぐらい強烈な個性の持ち主であったということ。

だからこそ、「最も備前離れした刀工」と評されるほど個性的であった長義を所有するのにふさわしいと見なされ、このような由来の説が生まれたのではないでしょうか。