はじめてお花見をした武将とは?

そろそろ桜が咲く季節。お花見をするのが楽しみですよね。お花見と言えば、美しい桜を見ながら、お酒を飲んだり、ご馳走を食べたり。日本ならではの、そんな素晴らしい文化を創ったのは、我らがあの武将でした!

吉野の花見、醍醐の花見!

お花見の準備はもうできましたか? 美しい桜の咲く公園や名所を調べたら、気の合う仲間と、焼き鳥、ピザ、おでんなどを持ち寄って、花を見ながらちょっと高めのシャンパンや春限定のビールを飲み干す。く~っ。日本の春って、最高ですよね!

いまやお花見は、春の娯楽の定番と言えますが、こんな素晴らしい文化、一体いつから誰が始めたのでしょうか?

豊臣秀吉

豊臣秀吉

日本ではじめてお花見をはじめたのは、あの「豊臣秀吉」です!

主君「織田信長」亡きあと、1585年(天正13年)に関白に任じられ、翌年に「太政大臣」、1590年(天正18年)に小田原の北条氏を滅ぼして、ついに天下を統一しました。

そこで開かれたのが、1594年(文禄3年)、「吉野の花見」(よしののはなみ)です。

「吉野」とは、現在の奈良県にある吉野町一帯をさす言葉。昔から「花見と言えば吉野」と言われたほど、桜の開花で有名な町でした。

実は、花を見るだけの花見は以前からあったのです。プラスアルファ、飲食を伴ったのが、我らが秀吉。

徳川家康・前田利家・伊達政宗

徳川家康・前田利家・伊達政宗

吉野の花見に招待したのは、「徳川家康」、「前田利家」、「伊達政宗」(だてまさむね)、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など、そうそうたる武将や茶人、歌人など、総勢5,000人

言い伝えによると、飲めや踊れやの宴は5日間続き、秀吉は権力と富を見せつけ、親睦をも深めました。

なお、吉野山は2004年(平成16年)、山全体が世界遺産に選ばれています

さらに、1598年(慶長3年)秀吉は二度目の花見を行ないます。それが、「醍醐の花見」(だいごのはなみ)。

「醍醐」とは、現在の京都府伏見、醍醐寺裏にある山ろくのこと。今度は「1日限り」の大花見宴が行なわれました。

前田利家・ねね

前田利家・ねね

秀吉が招待したのは、前田利家「秀頼」「ねね」「淀」「松の丸」「三の丸」、諸大名の奥方や女中衆など、総勢1,300人

たった1日のために、700本もの桜が植えられ、お茶や茶菓子、食事、歌や踊りが楽しまれ、女性には新しい着物が1人3着贈呈されて、2度の衣装替えが行なわれたとのこと。その費用は、現在価値にして、なんと総額40億円!

男衆があまり招待されなかったのは、朝鮮出兵の戦に出ていたため。

そんなときに自分だけ、40億円もかけて花見とは不謹慎とも思いますが、秀吉には国内に漂っていた暗いムードを何とか払拭したかったという思いもあったようです。

隅田川、飛鳥山、御殿山の桜!

徳川吉宗

徳川吉宗

お花見ゆかりの武将として、もうひとりご紹介したいのが、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)です。

吉宗は、江戸の飛鳥山(王子)に1,200本の桜を、隅田川堤(向島)や御殿山(品川)にも100本以上もの桜を、植樹したことで有名です。それは、一体なぜだったのでしょうか。

実は、吉宗が将軍になったときには、すでに江戸幕府は財政難。旗本御家人に支給する蔵米は不足。年貢の増徴で百姓一揆が勃発など、武士も農民もとにかく不満がたまっていました。

そこで、吉宗が取り掛かったのが、「享保の改革」です。これは、将軍自らが中心となって行なった幕政の改革のこと。

この一環として吉宗は、江戸のいろいろな場所に桜を植樹。庶民に「花見」という娯楽を与えることで憂さ晴らしをさせ、人々の心も改革しようと図ったのです。

これが、なんと大成功。吉宗は、桜を植えただけでなく、桜木のまわりに飲食店(出店)を作ることを奨励。桜餅屋や甘酒屋、江戸前寿司屋もあったかもしれません。江戸町民の心を掴み、たくさんの花見客を集めました。

花見客が集まると、さらに良いことが起こります。当時、河川の氾濫による水害が多く、幕府は堤防を作ることが必須だったのですが、重機などはありません。堤防に桜を植えて、その上を見物に来る多くの人が集まることで、重機に勝る踏み固めが行なえたのです。

結果、堤防は強くなり、治水対策ができました。不満解消、経済発展、治水も対策。まさに一石二鳥以上の改革。

さらに、桜の木によって、江戸に多かった、火事による延焼防止も行なえたとする文献も見られます。

吉宗のことを、「暴れん坊」と言ったり、「ケチ将軍」と呼ぶ人もいたりしますが、お花見に欠かせない、出店をつくってくれた功績はかなり大きいと言えるのではないでしょうか。

桜の日本刀とは?

いつの時代も多くの人に愛された桜ですが、桜にちなんだ日本刀(刀剣)はご存知ですか。

調べたところ、2振見つけることができました。それは、「光忠」(みつただ)が作刀した「初桜」と、「吉光」(よしみつ)が作刀した「初桜」です。

初桜 太刀銘光忠

光忠とは、備前長船派の開祖のこと。「蛙丁子乱れ」(かわずちょうじみだれ)など、華やかな乱れ刃を焼くことで有名です。

初桜は、「尼子経久」(あまごつねひさ)の3男「宮内大輔興久」(塩冶興久)が佩刀。月山富田城(現在の島根県安来市)に出現した化け物退治をしたという言われがありますが、現在所在は分かりません。なお興久は、所領の不満から父・経久に謀反し、自害しました。

初桜 太刀銘吉光作

吉光とは、 藤四郎吉光(とうしろうよしみつ)のこと。 国宝も手掛ける、 山城伝粟田口派の名工です。

こちらの初桜は、「大内義長」(おおうちよしなが)が所持していました。義長は、周防大内家(現在の山口県)の最期の当主で、毛利元就に攻められて敗れ、自害した人物。初桜の行方は現在不明です。

桜の日本刀(刀剣)は、たった2振しかないの?と思われた方もいるでしょうが、桜とは美しくパッと咲いて、パッと散るもの。

つまり「短命」を意味してしまい、常に死と隣り合わせで戦っていた武士にとっては、縁起が悪いと避けられたようです。ちなみに、この2振を所持した武将はどちらも自害に追い込まれ、お家も断絶しています。

そんな縁起の悪さが広まったのか、桜の名の付く日本刀(刀剣)は、残念ながら、他には見られません。

ところで、秀吉は、亡くなる前にこんな句を詠みました。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」(=露のように生まれ、露のように消えていくようだ。大坂で過ごした日々は、夢の中で夢を見ているような素晴らしい日々だった)

大波乱の戦国時代をトップで生き抜き、戦死ではなく、病の末に亡くなった大往生とも言える、秀吉。

亡くなる5ヵ月前に、40億円もの豪華絢爛な大花見会を開いた豪快な人物です。秀吉のような、夢のまた夢みたいな景色は私達一般人には、到底見ることはできないでしょう。

しかし、まもなく元号が変わる、混沌とした時代を真面目に生き抜いてきた私達。今年の春は平成最後

秀吉が行なった景気の良い醍醐の花見に参加したつもりで、ご褒美気分のちょっと贅沢なお花見を楽しんでみても良いのではないでしょうか。