本能寺の変~なぜ明智光秀は織田信長を裏切った?~

「戦国時代」と言えば、多くの武将が名を残し、天下を目指して散っていった日本を代表する時代のひとつ。しかし、ロマンが溢れるがゆえに史実ではなく様々に創作され、仮説が飛び交い、現代でも有識者の間で意見が分かれるような出来事が多くあります。そのひとつが「本能寺の変」。「明智光秀」は、「織田信長」を裏切って本能寺で織田信長を討った人物ですが、織田信長を裏切った理由については実は明らかになっていません。今回は、戦国時代最大の謎とも言われる本能寺の変について、最新の仮説と共にご紹介していきます。

本能寺の変とは

明智光秀が織田信長を討った理由は現在も不明

本能寺の変」は、「織田信長」の家臣「明智光秀」が裏切り、「本能寺」に滞在していた織田信長を討ち取ったという出来事です。近年ではお笑い芸人が、音楽に合わせて踊りながら内容をザックリ解説するというネタを披露したことから、多くの人にとって聞き慣れた出来事になっているかもしれません。

2019年(令和元年)現在、「明智光秀が織田信長を討った本当の理由」についての仮説や推測は、なんと50説以上存在します。なぜなら、明智光秀本人や織田信長討伐に動いたと思われる武将、家臣らが書いた書状などの決定的な証拠がほとんど見つかっていないからです。

なぜ書状などが見付からないか、その理由は定かではありません。明智光秀や、裏切りに加担した者達が証拠を隠滅した可能性がある他、裏切り者に対する仕打ちは現代よりも厳しいものでしたから、一族郎党のみならず明智光秀がかかわったと思われる物品なども含めて、すべて闇に葬られたということも考えられます。

明智光秀が謀反を起こした理由について確かな証拠がないために、50以上も仮説が立てられている訳ですが、当時の明智光秀と織田信長の間に起きた出来事を少しでも知っている人からすると、「いや、明智光秀は織田信長にひどい扱いを受けた腹いせに逆襲しただけでしょ」と思う方もいるかもしれません。ちなみに、この仮説も50以上あるうちのひとつ「怨恨説」として挙げられます。

しかし、本能寺の変について調査を進めていくうちに、どうにもそのような簡単な理由で織田信長を討った訳ではないことが分かってきたのです。

本能寺の変の経緯

1582年(天正10年)6月2日。まだ夜が明けきらない朝方。京都府京都市中京区の寺院・本能寺を、明智光秀率いる明智軍が包囲します。その数およそ3,000騎。

明智光秀は、家臣達と共に勝ち鬨(かちどき)を上げて御殿へと鉄砲を撃ち込みました。これが開戦の合図となり、明智軍は御殿に飛び込んで、小姓や織田信長家臣を次々に討ち取っていきます。火の手が上がった寺内でしばらく戦ったのち、明智光秀は兵を引き上げました。

なお、このとき明智光秀は織田信長の姿を見た訳ではなかったため、織田信長を取り逃がしたかと不安に思い、その場に留まって織田信長の遺体を探していたと言います。それを見かねた家臣「斎藤利三」は、明智光秀に「織田信長は、合掌したあとに火の点いた建物へと入っていたのを見た」と証言をしました。明智光秀はそれを信じて本能寺を発ちます。

本能寺における明智光秀側の動向は上記の通りです。続いて、織田信長側の動向を記述していきます。

織田信長

織田信長

明智光秀が御殿を取り囲んだとき、織田信長は、ただならない騒がしさに目を覚まし、小姓「森成利/森蘭丸」(もりなりとし/もりらんまる)に「誰による謀反か」と問いました。森成利が「明智光秀によるものと思われます」と返すと、織田信長は「是非に及ばず」(仕方がない)と述べたと言います。

織田信長は、攻め入ってきた明智軍としばらく戦いましたが、腕に負傷をすると御殿の奥へと入っていき、それまで傍にいた女性の使用人達を逃がしました。この時点で寺内にはすでに火が点けられており、織田信長の近くまで火の手が迫っていたと言います。

その後、織田信長は切腹。寺内では他にも大勢の死者が出ており、織田信長の遺体は見付けられなかった(判別ができなかった)、というのが本能寺の変の経緯です。

明智光秀の最期

豊臣秀吉

豊臣秀吉

本能寺を発った明智光秀は、裏切り者として「羽柴(豊臣)秀吉」などの織田信長に恭順していた武将に追われ、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)と山城国(やましろのくに:現在の京都府)の境目である山崎で「山崎の戦い」を開始。

このとき、豊臣秀吉軍は周辺の大名を味方に付けながら移動してきたため、およそ40,000弱の兵力を有していました。対して明智軍の兵力は16,000。

明智軍は、地形的にも兵力的にも不利な状況で戦い、ついに敗走。なんとか逃げ延びた明智光秀でしたが、逃げた先で落ち武者狩りに遭遇。明智光秀は、このときに深手を負い、その後自害に至りました

なお、明智光秀の最期に関しても諸説あり、自害説以外には「落ち武者狩りに遭った際に討ち取られた」という説もあります。

本能寺の変の真相・原因

室町幕府再興説と足利義昭黒幕説について

明智光秀が織田信長に謀反した確かな原因は、決定的な一次史料(当事者が遺した書状や日記)が見付かっていないため、断言することはできません。現在立てられている仮説に関しても、そのほとんどが二次史料(第三者による手記や日記)を参考にして考察された仮説です。

二次史料は数多く残されていますが、いずれも他の史料と照らし合わせると辻褄(つじつま)が合わないことや、明智光秀と織田信長の最期に関しても諸説あるように、史料によって異なる点が多数存在するなど、信憑性には今ひとつ欠けてしまいます。

そんな中、2017年(平成29年)岐阜県美濃加茂市美濃加茂市民ミュージアム」で見付かった書状「土橋重治宛光秀書状」(つちばししげはるあてみつひでしょじょう)によって、「明智光秀は室町幕府を再興しようとしたのではないか」という「室町幕府再興説」が有力になったと話題になりました。

土橋重治宛光秀書状

土橋重治宛光秀書状

室町幕府再興説とは、明智光秀が「清和源氏」の血筋であると言われているため、平氏の末裔である織田信長に対抗して、源氏として天下人になり室町幕府を再興しようとした説のことです。また、「幕府再興」という目的が似ている「足利義昭黒幕説」も存在します。

足利義昭黒幕説は、室町幕府最後の将軍「足利義昭」が、再び将軍職に就き幕府を再興させるために織田信長を討つよう明智光秀に命じた(明智光秀が独断で織田信長を討ったのではなく、実は黒幕として足利義昭が裏で命令を下していたのではないか)という説です。

明智光秀は、織田信長に仕える以前は足利義昭のもとに仕えていたため、明智光秀と足利義昭が密に連絡を取っていた可能性があることから、黒幕として足利義昭の名前が挙がったと見られています。

土橋重治宛光秀書状の内容

本書状は、本能寺の変の10日後に明智光秀が「土橋重治」(つちばししげはる:紀伊国[雑賀衆]の反織田信長派の武将)に宛てて書いた書状。

雑賀衆

雑賀衆

本能寺の変で明智光秀は、「雑賀衆」(さいかしゅう)という鉄砲の扱いが上手い傭兵集団を味方に付けており、書状にも「雑賀衆が味方に付いたことは幸運だった」という旨が記載されていました。そして、室町幕府再興説を裏付けると話題になったのが、以下の記述。

「将軍が入洛(じゅらく:京都に入ること)できるように動くつもりでいるが、どのように行動すべきかは将軍から指示が入るため、私から詳しい内容は伝えられない」

明智光秀が「将軍」と呼ぶ相手は、織田信長を除いて足利義昭しかいません。足利義昭を入洛させることで幕府を再興しようとしたのではないか、とも読み取れるのです。

しかし、本書状以外に「義昭[将軍]」の記述がある書状が見つかっていないことから、明智光秀が室町幕府を再興させようとしていたとは言い切れないとの見方もあります。

また、これが足利義昭からの指示であるという証拠には繋がらないため、「黒幕=足利義昭」説の関連性もないこと、そして以前から本書状の「写し」(転写した物)が存在し、原本となる本書状が発見されたからと言って、これを足利義昭黒幕説や室町幕府再興説の裏付けと断定するのは早計だと、有識者からは厳しい意見が上がりました。

すべての仮説に可能性が秘められている!

明智光秀本人が「こういう理由で織田信長を討つ!」などの大胆な書状を残すはずがないのは当然としても、室町幕府再興説にせよ、その他の仮説にせよ、結論から言うと「恐らく原因はひとつではないだろう」というのが有識者の間では共通認識になっています。

フィクション作品などでは、本能寺の変が起きたあとに「中国大返し」と言われる、異常な速さで明智光秀を討伐しに駆け付けた豊臣秀吉が疑わしいという「豊臣秀吉黒幕説」が人気ですが、これは学者や有識者の間ではトンデモ説と言われるほど「あり得ない」説です。

しかし、豊臣秀吉が仮に黒幕である場合、天下を取ったあとにすべての証拠を隠滅することなど簡単なことでしょう。実際に豊臣秀吉は、嫡子「豊臣秀頼」が誕生したのち、2代目関白であり甥の「豊臣秀次」を自害に追い込み、その後は豊臣秀次の居城「八幡山城」や邸宅「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)を破却し、豊臣秀次が関白であった痕跡をすべて消すなどの行動を取っています。

豊臣秀次

豊臣秀次

こういった理由から、織田信長を葬ったあとに、豊臣秀吉が明智光秀もろとも証拠を隠滅した可能性もゼロとは言い切れないのです。

なお、明智光秀は本能寺の変の動機だけではなく、その前半生も謎に包まれています。理由は、明智光秀の名が記された史料が発見されていないからです。史料が見付からない理由に関しては、「史料に残らないほど低い身分の出身だったのではないか」や、「明智光秀と名乗る以前は別名で生きていたのではないか」など様々な説があります。出生の地も美濃国(現在の岐阜県)近辺だろうと言われていますが、これもあくまで仮説です。

2020年(令和2年)に放映される大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀を主人公に据えていますが、謎とされる前半生をどのように描くのか、また作品最大の見所になると予想される本能寺の変は、数ある仮説の中でどの説を採用して演出をするのか、様々な意味で注目を集めています。

明智光秀のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介!