明智光秀はグルメだった!?
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意外にも、戦国時代の武将は、グルメ揃いだったと言われています。「徳川家康」の好物は鯛の天ぷら、「武田信玄」はアワビの煮貝、「伊達政宗」は伊達巻きなど。おいしい料理を知っていることは、有能な知識人である証拠。客人を招いてご馳走を振舞うことは、自らの権力を誇示する最高のパフォーマンスだったのです。そこで「織田信長」が信長宴の餐応役(きょうおうやく:飲食を提供するおもてなし役)に選んだのが、重臣「明智光秀」。明智光秀の「お・も・て・な・し」ぶりをご覧頂きましょう。
織田信長がグルメなの?

織田信長
「明智光秀」が仕えた「織田信長」は、相当な食通でした。好物は「干し柿」、「みそ味の焼き鳥」。この他「ワイン」、「金平糖」、「ビスケット」などとも伝わっています。後者はすべて、ポルトガル人やイスパニア人と行なった南蛮貿易の成果物。
異国の目新しい食べ物を、いち早く積極的に取り入れて好物とするなんて、さすが天下統一を目指したお方。まさに開拓者精神がみなぎっています。
そんな織田信長が、自ら主催のパーティーで餐応役に選んだのが、明智光秀です。織田信長は「甲州征伐」で活躍した「徳川家康」をねぎらうため、織田信長が居城する安土城に徳川家康を招いて、手厚く接待する役を任せました。
実は、織田信長は尾張国(現在の愛知県)育ちで、濃い味が好みです。京にくらべたら、田舎育ち。それを気にする一件が起こりました。
室町幕府が滅亡したあと、京でいちばんの腕と言われた三好家の料理人を雇おうかと、料理を一品作らせたことがあったのです。これが、味が薄くてまずいと斬り殺そうとするほどの大騒ぎに。
料理人がもう一品作らせて下さいと懇願し、尾張風の濃い味の料理を作ったところ、織田信長はご満悦。料理人は命拾いして、無事に織田信長に雇われました。
織田信長はこの件で、自分の舌は京風ではないと分かったよう。だからこそ、京育ちで、舌が繊細で美食家と言われる明智光秀に、饗応役という大役を託したのです。
明智光秀は織田信長の思いに応えるため、自分の知識と経験のすべてを使って、安土の宴に提供する料理を、献立から一生懸命に考えました。
それが、「天正十年安土御献立」(てんしょうじゅうねんあづちおこんだて)と呼ばれるメニューなのです。
天正十年安土御献立とは?
織田信長が徳川家康を安土城に招待したのは、天下統一を目前に控えた1582年(天正10年)5月15日。
饗応役の明智光秀は、織田信長と徳川家康のために天正十年安土御献立を考案しました。その献立の詳細は、1822年(文政5年)に「塙保己一」(はなわほきいち)が編算を完了した「続群諸類従」(ぞくぐんしょるいじゅう)に書き記されています。
これによると、明智光秀考案の献立は「15日をちつき」、「15日晩御飯」、「16日御朝めし」、「16日之夕、めし御ゆつけ」の大きく4回分。
「をちつき」とは、正式の来訪者に最初に提供する軽い食事のこと。戦国時代は、1日2食(朝、夕)が基本でした。朝到着しなかった客人には、をちつきを提供して、おもてなしをしていたのです。
では、天正十年安土御献立の内容を見ていきましょう。
15日をちつき
- 本膳:たこ、鯛の焼き物、菜汁、なます、香の者、ふなの寿司、御めし
- 二膳:うるか<塩辛>、うちまる<鰻の蒲焼>、ほや冷や汁、ふとに、貝アワビ、ハモ、鯉の汁
- 三膳:やきとり、かざみ<蟹>、山の芋つる汁、にし<巻き貝>、すずき汁
- 四膳:まきするめ、しきつほ<鴨の壺焼き>、しいたけ、ふな汁
- 五膳:まな鰹さしみ、生姜酢、鴨汁、けつり昆布、ごぼう
- 御菓子:やうひもち、まめあめ、みの柿<干し柿>、はな昆布、から花

15日をちつき
軽食というわりには豪華ですよね。織田信長の好きなやきとりも、徳川家康の好きな鯛も、京育ちの明智光秀が好きそうなハモまであります。
15日晩御飯
- 本膳:みつあへ<煮物三品盛り合わせ>、こまごま、鮎の寿司、ひたい<鯛の干物>、御めし
- 二膳:串アワビ、こち汁、なしつけ<奈良漬け>
- 三膳:角煮、鯛のあつ物、つほ、かくもり、つほもり、かわらけの物 など

15日晩御飯
鮎の寿司に、串アワビに、奈良漬けも、もうこの時代にあったのですね。
16日御朝めし
- 本御膳:うちまる<鰻の蒲焼>、鱒の焼物、汁、うど、鮒なます、このわた桶、御飯
- 二膳:ひばり<焼き鳥>、かれい、鯛の汁、けつり物、麩の小串、いか、冷汁
- 三膳:しほひき<魚の塩漬>、雁の汁、きりかまほこ、すきかかり<煮物の盛り合わせ>、とさかのり
- 四膳:大はも、とへた、山のいも、そほろ、すずきのさしみ、かけいり<魚のすり身>、ミル貝
- 御菓子:薄皮まんじゅう、美濃の柿、山のいも、びわ、麩あげ

16日御朝めし
鰻の蒲焼、すずきの刺身、織田信長が好きな美濃の柿も出てきました。
16日の夕御飯・めし御ゆつけ
- 本膳:しほひき<魚の塩漬け>、かりの豆、焼き物、香の物、ふくめたい、かまぼこ、御めし<湯漬け:ご飯に白湯をかけた物>
- 二膳:からすみ、たこ、さざえ、あつめ汁、小串<魚・鳥>、あへくらげ
- 三膳:椒はも、海老の舟盛、たけのこ、のしもみ<鮑>、鯉汁
- 四膳:数の子、百菊焼<鳥の砂肝焼>、あを鷺汁、瓜もみ
- 五膳:鴫のはもり<焼き鳥>、くじら汁、ばい貝
- 御菓子:ようかん、うち栗、くるみ、揚げ物、はな昆布、おこし米、のし鮑
などなど。さすが明智光秀。海の物、山の物、川の物と素材が豪華で、徳川家康好み、織田信長好みでバランスも良く、きっと当時の見た目も美しかったに違いありません。
なお、1日2食ではなく、1日3食になったのは江戸時代からと言われています。
食べ物の恨みは恐ろしい?
献立を読んだだけで、ヨダレが出そうな御馳走を考案した明智光秀ですが、なんと織田信長は大激怒。明智光秀は、途中で饗応役を解任され、「豊臣秀吉」の下に付いて、すぐに毛利攻めに出陣するよう怒鳴られ蹴り飛ばされて、領地も没収されることになったと伝えられています。
ところで、ポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」は、著書「日本史」の中で明智光秀のことを、「その才知・深慮・狡猾さにより織田信長の寵愛を受けた」と書いています。
激怒の理由は、腐った魚を出したからなど諸説ありますが、有力なのは、織田信長が明智光秀を饗応役に抜擢したのは徳川家康に毒を盛らせるため。しかし、明智光秀は忖度できず、まじめに料理を提供したからだと言われています。
「この私が深慮に欠けたとでも言うのか!」
きっと、明智光秀はこう思ったに違いありません。いくら明智光秀でも、この仕打ちは許せなかったのでしょう。毛利攻めに出陣する途中で、自身の重臣に「織田信長討伐」を告げたと言われています。
つまりこの恨みが「本能寺の変」のきっかけになり、織田信長は命を落とすはめになったことは言うまでもありません。
ことわざで「食べ物の恨みは恐ろしい」と言いますが、天正十年安土御献立はまさに「うら飯や~」!
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コメント
コメント一覧 (34)
やはりこの料理で織田信長に怒られたのが全てなのかもしれない
明智光秀はとてつもない苦労があったろうに
そこだけは汲んであげれば結末は違ったように思う…
当時、これだけの料理をそろえるのは大変だったでしょう。
明智光秀は真面目すぎて、気が利かなかったのか。。
濃い味付けが好きだったのか!
どんな味付けか気になります。
と暴れたくなる信長さんの気持ち分かります。
私も京都の味噌汁みたときにカルチャーショック受けました(赤出汁派ですから)。
でも膳のメニューどれも美味しそうw
江戸時代の将軍様よりいいもん食べてそう。
この徳川毒殺の諸説が本当ならドラマのなかでも描かれるでしょう。どのように感情を表現するのかとても楽しみです!
その食が良くないものに変わると恨みも大きいんですね...
美味しいもの美味しいものを求めるより、
少しの美味しさを噛みしめたいですね。
その苦労が報われなかったのも要因なのでしょう。
それにしても、明智光秀が考えたメニューは豪華ですね
デザートもついていて、美味しそう
レストランとかで出したら人気でそう。
この件がなければ天下統一してたかもしれないと思うと、食べ物がめちゃ歴史に影響与えてるな(。-∀-)
やっぱり昔から味噌は万能で凄かったんだなぁ!
明智光秀ももっと味噌を押していけば織田信長もニッコリだったんじゃないだろうか?
記事の中にある「食べ物の恨みは恐ろしい」。
正にその通り!
著名な武将もやはり同じか…
くわばらくわばら。
外国の食べ物も伝わってきていたんですね。
当主の口に合わないと斬り殺されるかもしれないなんて
料理人も命がけで働いていたんですね。
いやー恐ろしい。
それに徳川家康に毒をもったら、のちのち嵌められて、徳川家康の毒殺の犯人にしたてあげられそう。
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