63_明智光秀2_1

「あのとき、ああしていれば、別の未来があったかもしれない」。誰もが1度はこんな思いにかられたことがあるのではないでしょうか?かの「シェークスピア」は、こう言いました。「Life is a series of choices」(人生は選択の連続である)。人が生きていく上で、避けては通れないもの。それが選択(決断)です。一説によると、その数は大小合わせて1日で1,000以上とも…。ここでは筆者の独断と偏見で、4つの「もしも」を選定し、「明智光秀」が逆の選択を行なった場合に迎えたであろう未来を空想してみます。

もしも①:足利義昭に仕え続けていたら

63_足利義昭

足利義昭

明智光秀」と「織田信長」をつないだのは、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)でした。当初、足利義昭に「奉公衆」(ほうこうしゅう:室町幕府官職のひとつ)として仕えていた明智光秀は、足利義昭と織田信長の間で「連絡係」のような役割を果たしていたと言われています。

1573年(元亀4年)頃から織田信長に仕えるようになると、メキメキと頭角を現し、その後の活躍はご存知の通り。「豊臣秀吉」らと共に、織田家の重臣となったのです。

もし、明智光秀が織田信長ではなく、足利義昭に仕え続けるという選択をしていたら、その未来はどうなっていたでしょうか。当時、織田信長は「海道一の弓取り」との異名を取った「今川義元」を破るなど、破竹の勢いで上洛を進めていました。

しかし、浅井・朝倉連合軍との戦いでは1度は撤退を余儀なくされます(金ヶ崎の戦い)。加えて東国には「上杉謙信」や「武田信玄」らの有力大名が存在するなど、微妙なパワーバランスの上にあった権力基盤だったのが実情です。

金ヶ崎の戦いでは、豊臣秀吉らと共に「殿」(しんがり)を務めたのが明智光秀でした。撤退戦で殿を務め、主君を無事に撤退させることは、武将としての能力の高さを示すことに直結します。

こうしたことから考えると、戦場における明智光秀の能力は、決して低いとは言えません。足利義昭は独自の軍を持たなかったため、有力な戦国大名に頼らざるを得ない状況にありましたが、織田信長と離反したのちには「織田信長包囲網」を形成するなど、外交手腕には長けていました。

もし、明智光秀が足利義昭に仕え続けていた場合、織田信長の天下統一路線の前に立ちはだかる壁となっていたかもしれません。

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もしも②:明智光秀が家臣「斎藤利三」を手放していたら

明智光秀の家臣には「斎藤利三」(さいとうとしみつ)という人物がいました。斎藤利三は、明智光秀にとって重臣中の重臣に位置付けられる武将です。また、江戸幕府3代将軍「徳川家光」の乳母「春日局」(かすがのつぼね)の父親としても知られています。

元々「斎藤道三」の長男「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)に仕え、斎藤義龍の死後は「稲葉一鉄」(いなばいってつ)に仕えていましたが、稲葉一鉄と袂を分かったあとは、縁戚関係にあった明智光秀が高額な俸禄で召し抱えたのです。

その後、稲葉一鉄が織田信長に対して斎藤利三を自分の下に戻すように直訴。織田信長も一旦はこれを聞き入れ、明智光秀に対して斎藤利三を稲葉一鉄の下に帰すように促しました。

このときの明智光秀の選択は拒絶。そして「30万石の大禄を下されるとも、我は栄耀(えいよう:ぜいたく)とは存じませぬ。良き士を求めるのも、ひとえに織田信長公への奉公のためでございます」と反論したのです。これに激高した織田信長は明智光秀を折檻したと言われています。

絶対的な存在だった主君に楯突いてまでも手元に置いておきたかった斎藤利三は、明智光秀の勢力拡大に貢献。明智光秀にとって、なくてはならない家臣だったと言えるのです。

織田信長

織田信長

もし、明智光秀が織田信長からの要求を受けて斎藤利三を手放していたら、どうなっていたでしょうか。推測の材料となるのは、明智光秀を折檻した織田信長が、最終的には明智光秀の反論を受け入れ、斎藤利三が明智光秀の重臣となることを認めたこと。能力主義を貫いていたと言われている織田信長にとっても、明智光秀の下に斎藤利三を置くことが有益だと判断したのです。

この事実から、織田信長は明智光秀の能力はもちろん、斎藤利三の能力も評価していたことが読み取れます。織田信長は、明智光秀はもちろん、「明智光秀の家臣としての斎藤利三」も必要としていたと言えるのです。

斎藤利三は、「本能寺の変」における首謀者のひとりだったとされ、のちに「山崎の戦い」で敗れて敗走。豊臣秀吉の執拗な捜索によって、近江堅田(おうみかたた:現在の滋賀県大津市)で捕らえられ、京の六条河原で処刑されました。

もっとも、最後まで謀反には反対していたという説もあるように、斎藤利三は冷静な判断力や視野の広さもかね備えていた武将であると考えられます。織田信長の家臣団の中で、明智光秀は「後発組」。斎藤利三を手放していたら、明智光秀が謀反を成功させられるほどの力を付けることができていたかは疑問です。

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もしも③:因幡・石見に移っていたら

明智光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」には、本能寺の変の直前に、明智光秀が織田信長から近江坂本(現在の滋賀県大津市)、及び丹波亀山(現在の京都府亀岡市)から因幡(いなば:現在の鳥取県東部)や石見(いわみ:現在の島根県西部)への転封を命じられていたという記述があります。

因幡や石見は、織田信長の影響力が及んでいる地域ではありませんでした。領国だった近江坂本や丹波亀山からの転封は、明智光秀にとって左遷的な意味合いの強いものだと言えます。創作的な意味合いの大きい軍記物であるだけに、信憑性は乏しいと言えますが、明智光秀が移封受け入れという選択をした場合、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

当時、戦国大名達の領国経営は、「独立採算制」とでも言うべきスタイルでした。すなわち、戦の際に軍を形成する兵隊を各武将が養っており、経済的な裏付けが必要だったのです。そのため、各戦国大名は領国経営について、様々な工夫を凝らしました。その代表的な例と言えるのが、織田信長らによる「楽市楽座」。規制を緩和することで、領国内の経済を活性化させることを意図していたのです。

明智光秀の領国経営の特徴としては、無駄を省いた人材活用が挙げられます。すなわち、「国人衆」と呼ばれる土着の支配層を家臣に取り立て、土地のことをよく知る人間を活用していました。こうすることで、スムーズな統治が可能となったのです。身分・出自に関係なく適材適所の人事を行なった組織は活性化しました。

また、明智光秀が築いた「坂本城」や「亀山城」、「福知山城」は、戦国時代には珍しい「平山城」。戦の際に砦として活用するだけではなく、平時には政務を行なう庁舎として使用されるなど、領国経営における政務拠点となったのです。

63_石見銀山

石見銀山

石見と言えば、世界遺産にもなっている「石見銀山」がある場所として知られています。戦国時代から江戸時代にかけて最盛期を迎えた銀山から産出される銀は、莫大な富を生みました。中国地方を統治していた毛利氏を経済的に支えていたのをはじめ、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の軍資金に充当され、江戸時代には幕府の直轄領(天領)として、幕府主導の銀山開発が進められたのです。

このように、石見銀山のある石見を支配下に治めることは、大名にとって、大きな経済的権益を得ることになったと言えます。

織田信長が明智光秀に出した石見移封の条件は、自力で支配権を確保すること。すなわち、毛利氏ら西国の有力大名から石見を実力で奪うことでした。決して容易なことではありませんが、実現していた場合には、歴史が変わっていた可能性もあります。

明智光秀が石見を領国とすることの意味は、明智光秀が石見銀山をも手中にすること。人材活用術に加え、莫大な銀による強固な財政基盤を手にした明智光秀が勢力を拡大し、西から天下統一路線を歩み始めるということも、まんざら夢物語であるとは言い切れません。

もしも④:本能寺の変を引き起こしていなかったら

63_本能寺の変(下々の者の喧嘩?)

本能寺の変

最後はやはりコレ。明智光秀が本能寺の変を引き起こしていなかったら、どのような未来が待っていたのでしょうか。

謀反の動機については、様々な説が飛び交っており、決定的な説があるとまでは言えない状況ですが、確実なのは、明智光秀が本能寺の変を引き起こすという選択をしたこと。これによって天下統一目前だった織田信長は横死し、代わって台頭した豊臣秀吉が、明智光秀を下して天下人になりました。

では、もし明智光秀が織田信長の命令(中国征伐中の豊臣秀吉の援護)通りの行動をしていたら、どうなっていたでしょうか。

明智光秀が「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう)で交戦中だった豊臣秀吉の下に応援に参じていた場合、豊臣秀吉・明智光秀連合軍が中国地方の覇者・毛利氏を下す確率は高かったと言えるでしょう。その結果、織田信長の勢力は中国地方にまで及んだと考えられるのです。

その余勢を駆って、織田信長が3男「織田信孝」(おだのぶたか)に命じていた四国の長宗我部征伐への援軍も可能。中国・四国地方が共に織田信長の支配下となった可能性が高いと言えます。天下人・織田信長が誕生した結果、豊臣秀吉による天下統一はもちろん、「徳川家康」による江戸幕府開府もなかったかもしれません。

もっとも、織田信長が天下人になったとしても、懸念材料はありました。その苛烈な性格ゆえの不安定さに加え、天下統一後には「唐入り」(からいり:中国大陸への進出)を構想していたとされるなど、先行きは不透明だったと言えます。

そのような状況では、明智光秀以外の織田家重臣が謀反を起こさなかったと言い切ることはできません。そのとき、明智光秀はどのような選択をするのでしょうか。織田信長に付くのか、それとも…。興味は尽きません。

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