89_茶の湯

血気盛んに合戦を繰り返していた戦国武将とは、ほど遠いイメージのある「茶の湯」の世界。しかし、戦国時代に活躍した武将達は、こぞって茶の湯をたしなんでいました。1582年(天正10年)6月2日に起こった「本能寺の変」により、主君「織田信長」を討った「明智光秀」もご多分に漏れず、茶の湯に親しんでいた戦国武将のひとり。

ここでは、「逆賊」や「三日天下」などと揶揄される一方で、教養深い文化人としても知られる、明智光秀と茶の湯の関係について見ていきます。

明智光秀をはじめとする戦国武将にとっての茶の湯とは?

明智光秀_24

明智光秀

何かと忙しい毎日を送る中でひと息つきたくなったとき、皆さんは何をしますか?その方法は様々ありますが、中には、お茶やコーヒーを飲んでくつろぐという人も多いのではないでしょうか。

いくら勇猛であった戦国武将とは言え、熾烈(しれつ)な戦いに明け暮れていれば、その体はもちろん、精神も少なからず疲弊していたのは当然のこと。そこで彼らは、戦場から離れて静かにお茶を点てる(たてる)時間を持つことで、戦いの緊張で張り詰めていた心をほぐし、自分自身を癒やしていたのです。

また戦国時代には、武将が武力をもって天下を掌握したとしても、朝廷から認められて任命を受けなければ、支配権を持つ将軍の座に就くことはできませんでした。

そのため戦国武将は、茶の湯を趣味としていただけではなく、朝廷に属する教養の高い貴族達と対等に渡り合うことを目的に、この当時における教養の証しとして学んでいたのです。

特に「明智光秀」が家臣として仕えていた「織田信長」は、他の誰よりも茶の湯に入れ込んでいた戦国武将。織田信長は、「名物狩り」(めいぶつがり)と称されるほどに、茶道具の名器を熱心に収集していました。それに加えて、趣味や教養のためであった茶の湯を、政治的権威を示す物としても利用

そんな中で明智光秀は、かねてより公家との連歌会への参加や、自身での開催など、教養を身に付けることに励んでいましたが、茶の湯を学ぶことは、主君・織田信長に認められるための手段でもあったと言えます。

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織田信長の御茶湯御政道に見る明智光秀と茶の湯の関係

織田信長_29

織田信長

それでは織田信長は、一見すると相容れることがなさそうな政治と茶の湯を、どのように結び付けていたのでしょうか。

まず織田信長は、名物狩りで入手した茶道具の数々を、自身が開いた茶会の席で披露します。その中には、室町幕府8代将軍であり、文化人としてその名を馳せた「足利義政」(あしかがよしまさ)が所有していた「唐物」(からもの:中国、及びその他の諸外国から渡来した物品)と呼ばれる貴重な茶器が観られました。

そんな茶道具を所有している自分こそが、足利将軍家の後継者となり、天下を取るのにふさわしい人物であることを示したのです。

また当時は、武士が合戦などで何らかの功績を挙げたときには、主君からの褒賞として領地となる土地が与えられていました。しかし、土地の広さには限りがあるもの。そこで織田信長は、名物の茶道具には一国に相当するほどの価値があるとして、土地の代わりに家臣などに譲っていたのです。

さらに織田信長は、茶道具を与えた家臣達が主催する茶会をすべて許可制にすることで、茶の湯を武家儀礼のひとつにまで高めています。「許し茶湯」と称されたこの制度は、「信長公記」(しんちょうこうき/のぶながこうき)によれば、1578年(天正6年)正月より開始。

このとき、織田信長の家臣12名が許可を受けており、その中には、明智光秀の名前も含まれていました。このことから明智光秀は、織田家にとっては新参者の家臣であったにもかかわらず、織田信長に認められていたことが窺えるのです。

このように織田信長が茶の湯を政治に利用していたことは、のちに「御茶湯御政道」(おちゃのゆ/おんちゃのゆごせいどう)と呼ばれ、織田信長のあとに天下人となった「豊臣秀吉」にも継承されることになります。

明智光秀は、許し茶湯の制度が始まった1578年(天正6年)から、「本能寺の変」を起こす1582年(天正10年)までの5年のあいだに、坂本城(さかもとじょう:現在の滋賀県大津市)の城主として12回もの茶会を開催。

「亭主」(ていしゅ)と呼ばれる茶会の主催者は、客人にふるまうためのお茶を点てる腕前だけでなく、心を尽くしてもてなせるだけの素養が必要。茶会の亭主とその席に招かれた客人が本当の意味で交流するためには、茶の湯の技術や作法を習得することはもちろん、その根底にある精神についても理解していなければならないのです。

そのため、明智光秀は和泉国・堺(いずみのくに・さかい:現在の大阪府堺市)出身の豪商であり、茶人でもあった「今井宗久」(いまいそうきゅう)と、同じく「津田宗及」(つだそうぎゅう/そうきゅう)を師と仰ぎ、彼らから茶の湯を学んでいます。

今井宗久と津田宗及は、茶の湯の様式のひとつである「侘び茶」(わびちゃ)を大成した、茶の湯史上最も有名な茶人「千利休(宗易)」(せんのりきゅう[そうえき])と共に、織田信長の「茶頭」(さどう:貴人に仕え、茶事全般を司っていた茶の師匠)として登用されました。また、この3人は、茶の湯界の「天下三宗匠」(てんかさんそうしょう)と称され、茶人としての実力と才能を高く評価されていたのです。

そんな今井宗久と津田宗及の両師匠から茶の湯を教わる中で、それぞれと親睦を深めていた明智光秀。とりわけ津田宗及とは、お互いに短歌や連歌を好むなど、相通じるところがあったのか絶大な信頼を寄せていました。

例えば、明智光秀が初めて亭主を務めた茶会では、まだ慣れていなかった明智光秀に代わって、亭主の所作などを津田宗及がすべて行なっています。そして、それ以降明智光秀は、自ら主催する茶会には必ずと言って良いほど津田宗及を招いていました。

明智光秀の茶会には、千利休のもとで20年間も茶の湯の修練を積んだ千利休第一の高弟「山上宗二」(やまのうえそうじ)や、明智光秀の与力(よりき:大名や有名武将に属する下級武士)であり、文化面にも精通していた武士「筒井順慶」(つついじゅんけい)など、様々な職業や身分の人物を招待。

ここに挙げたのはほんの一例ですが、明智光秀の交友関係が、いかに広いものであったかが分かる顔ぶれです。

明智光秀の出自や経歴については諸説あり、一説には、織田信長の家臣となる以前には、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の国主であった戦国大名「斎藤道三」(さいとうどうさん)に仕えたあと、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を経て、室町幕府15代にして最後の将軍となった「足利義昭」(あしかがよしあき)に付き従っていたと伝わっています。

細川幽斎

細川藤孝/幽斎

また明智光秀は、足利義昭の側近「細川藤孝/幽斎」(ほそかわふじたか/ゆうさい)とは姻戚関係を結んでいたこともあって、懇意な間柄にありました。

明智光秀の茶会に見られるその豊富な人脈は、明智光秀が自らの手で築いてきたことはもちろん、同じく文化人としての評価が高かった細川藤孝を通じて、幕府や朝廷にかかわる人物達とも繋がっていたのではないかと考えられています。

明智光秀は、そうした人々と交流を持つことで、茶の湯のみならず、様々な教養や技術を磨いていたのです。

その中で培われた明智光秀の外交力は、やがて織田信長に一目置かれることになります。それを示す出来事のひとつが、1568年(永禄11年)9月に足利義昭を奉じて、織田信長が入洛(じゅらく/にゅうらく:京都に入ること)を果たしたこと。

足利義昭は、1565年(永禄8年)に起こった「永禄の変」(えいろくのへん)にて、室町幕府13代将軍である兄「足利義輝」(あしかがよしてる)が、「松永久秀」(まつながひさひで)達によって討たれたことに伴い、幽閉の憂き目にあっています。

1568年(永禄11年)2月には、松永久秀らが「足利義栄」(あしかがよしひで)を擁立し、14代将軍に就任させましたが、足利義昭は、自分こそが将軍にふさわしい人物だと考えていました。そこで足利義昭は、京都への復帰に協力してもらおうと、全国の戦国大名に呼びかけたのです。

それに応じたのが、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で「今川義元」(いまがわよしもと)を倒し、急速に勢力を拡大していた織田信長。彼には、ゆくゆくは自らが覇権を握るために将軍の権威を利用したいという思惑があり、足利義昭の支援要請に応えたと考えられています。

このとき、織田信長と足利義昭のあいだを取り持った人物こそが、明智光秀だったのです。明智光秀は、細川藤孝のもとで織田信長との交渉を行ない、「立政寺」(りゅうしょうじ:現在の岐阜県岐阜市)で2人を引き合わせ、入洛して将軍になりたいという、足利義昭の野望を叶えるためのきっかけを作りました。

この時期には、織田信長と足利義昭の両属の家臣となっていた明智光秀は、1571年(元亀2年)、織田信長より坂本城の築城を命じられ、自身の居城としています。

明智光秀は、譜代の筆頭家老である「柴田勝家」(しばたかついえ)や、外様でありながらめきめきと頭角を現していた豊臣秀吉などを差し置いて、織田信長の家臣となってからたった3~4年で、織田家家臣団における第1号の「一国一城の主」となったのです。

明智光秀が本能寺の変の年に行なった茶会に込めた意味

武功を挙げることはもちろん、茶の湯を始めとする教養を身に付けることで人脈を広げ、交渉力や統治力を磨き、織田家家臣団の中でも織田信長から高い評価を得るようになった明智光秀。

茶の湯の腕前を上達させるだけでなく、自ら亭主となった茶会の席では、織田信長と同様に茶道具の名品コレクションを披露し、招待した客人達を大いに楽しませていました。

積極的に茶会を開いていた明智光秀は、1582年(天正10年)、日本の歴史を大きく揺るがす本能寺の変を起こした年にも、変わらず茶会を行なっていたのです。

津田宗及が記した茶会の記録のひとつ「宗及茶湯日記 他会記」によれば、その茶会は同年正月七日に催され、津田宗及と共に山上宗二が招かれています。

89_床の間と掛物

床の間と掛物

一般的な茶席では、茶室の床の間に「掛物」(かけもの:いわゆる掛軸のこと。茶の湯の世界では、通常、掛物と呼ぶ)が飾られ、「墨跡」(ぼくせき:僧侶、特に禅宗の高僧が墨筆で書いた筆跡)や、「唐絵」(からえ:中国から伝来した絵画。のちに日本人がその描法を真似たり、中国の風物を画題としたりする物も指すようになった)が多く用いられていました。

また、千利休の秘伝書とされる「南方録」(なんぽうろく)に「掛物ほど第一の道具ハなし」という言葉が見られるように、茶席における掛物は単なる鑑賞用の美術品ではなく、その会のテーマを表す茶道具として扱われていたのです。そのため掛物は、茶室の中の「上座」にあたる床の間に飾られていました。

そして明智光秀は、この茶会の際、茶席での重要な役割を担う掛物に、主君・織田信長直筆の書を選んでいます。つまり明智光秀は、このときにはまだ織田信長に対して崇敬の念を抱き、その恩恵に感謝していたと推測することが可能。

それから半年も経たないうちに、本能寺の変で織田信長を討ったことは、明智光秀自身でも予想していなかったのではないでしょうか。

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まとめ~明智光秀は謎多き茶人武将~

以上のように、明智光秀の戦国武将としての生涯を紐解くには、欠かすことのできない茶の湯。そんな茶の湯と明智光秀について、まことしやかに囁かれる都市伝説があります。

それは、本能寺の変のあと、1582年(天正10年)6月13日に明智光秀と豊臣秀吉のあいだで勃発した「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)において、没していたかに思われていた明智光秀が、実は千利休になりすまして生き延びていたとする説です。

しかし千利休は、前述したように織田信長の茶頭を務めて重用され、織田信長が亭主となった茶会に何度も参加していたという記録が信長公記などに残っています。

また、山崎の戦いで敵対した豊臣秀吉についても、まだ堺の商人であった頃の千利休と、織田信長の家臣として接触していました。

このようなことから千利休は、織田信長や豊臣秀吉とは面識があったことが窺え、たとえ明智光秀が千利休に変身していたとしても、その正体はすぐに見抜かれるはずです。そのため、現在ではこの説は否定されています。

それでも、このような都市伝説が出回っていたのは、明智光秀の「茶人武将」としての実力が、周囲にそれだけ高く評価されていたことの表れなのかもしれません。

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