94_八王子城 橋

江戸幕府成立以後、日本の政治や行政の中心地として栄えてきた東京。東京には、近世城郭として日本最大級の規模を誇った「江戸城」や「石神井城」(しゃくじいじょう)、「八王子城」、「滝山城」等の城跡があることで知られています。

戦国時代から江戸時代頃にあった東京の城。それぞれの歴史や特徴について、ご紹介していきます。

江戸城(東京都千代田区千代田)

94_江戸城

江戸城

1457年(長禄元年)、室町時代後期の武将「太田道灌」(おおたどうかん)が築城してから現在に至るまで、姿を変えながら東京都千代田区千代田に在り続けている、「旧江戸城」(現在の皇居)。

1590年(天正18年)以降は、徳川将軍家の居城として、改修を繰り返しながら栄華を極めました

明治維新後、1869年(明治2年)の東京奠都(とうきょうてんと:江戸が東京となって都として定められたこと)により「皇城」(こうじょう)と称されるようになり、1888年(明治21年)の明治宮殿完成に伴い「宮城」(きゅうじょう)と称されるようになったと伝わっています。

現在は、皇居として利用されており、「日本100名城」にも選定されました。

江戸城の火災と刀剣

江戸城を語る上で避けられない出来事に、城を襲った大火災があります。

1657年(明暦3年)に起こった「明暦の大火」。江戸の町を襲ったこの大火災の被害は甚大で、延焼面積・死者ともに江戸時代最大となっただけでなく、江戸城の大部分が焼け落ち、収蔵されていた数多の刀剣が焼失の運命を辿りました。その数は1,051振と伝えられています。

代表的な刀剣は、鎌倉時代に山城国(やましろのくに:現在の京都府)で鍛刀した名工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の名物他約300振、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で鍛刀した名工「相州正宗」(そうしゅうまさむね)の名物他多数、南北朝時代に越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)で鍛刀した「郷義弘」(ごうのよしひろ)の名物6振など、数え切れないほどの名刀が失われてしまいました。

町人総出で行なわれた消火活動により全焼は免れ、翌日には全国に向け将軍の無事を知らせる飛脚が発されたと伝わっています。

その後、江戸の町を復興するに際し、徳川幕府は防災都市化を図り、大規模な都市改造を行ないました。

94_皇居東御苑

皇居東御苑

現在は皇居になっている旧江戸城ですが、本丸・二の丸・三の丸の一部は「皇居東御苑」(こうきょひがしぎょえん)という庭園になっており、一般公開されています。事前に申請手続を行なえば見学することが可能です。

石神井城(東京都練馬区石神井台)

94_石神井城 土塁と空濠

石神井城

石神井城」(しゃくじいじょう)の明確な築城時期は不明ですが、一般的には室町時代中期頃、当時栄えていた豊島氏(としまし)により築城したと考えられています。

武蔵国、現在の東京都練馬区石神井台は、当時宇多氏・宮城氏の館があった場所。彼らと婚姻関係を継続していきながら石神井川流域の領主として勢力を拡大していた豊島氏は、石神井城を築き本拠地としました。

しかし、1476~1480年(文明8~20年)に起こった「長尾景春の乱」で太田道灌の攻撃を受け豊島氏は没落し、1477年(文明9年)に落城。

当時の城主であった「豊島泰経」(としまやすつね)は、このとき戦死したと伝わっていましたが、近年の説では逃亡したとも言われています。

城主、豊島泰経のその後

諸説囁かれている石神井城落城時の城主豊島泰経のその後は、一説には落城に伴い戦死したとも伝わっていますが、逃亡したとする説もあります。

このように諸説ある理由は、当時の様子を記した書物「太田道灌状」(おおたどうかんじょう:太田道灌が執筆。長尾景春の乱における自身の活躍を記述)や、「鎌倉大草紙」(かまくらおおぞうし:室町時代の関東地方における歴史を記した書物)の記述内容が曖昧で決定的ではなく、研究者によって意見が分かれているためです。

また、落城の折、城主の娘「照姫」が三宝寺池に身投げしたとする説もありますが、照姫は1896年(明治29年)に、作家「遅塚麗水」(ちづかれいすい)が執筆した小説「照日松」の登場人物。

フィクションが噂となり、あたかも架空の人物・照姫が実在したかのように流布され、まことしやかに囁かれました。

現在、石神井城の跡地には内郭の土塁と空堀が残っており、石神井城跡として一般にも親しまれています。

八王子城(東京都八王子市元八王子町)

94_八王子城跡

八王子城跡

1587年(天正15年)、「北条氏康」(ほうじょううじやす)の3男である「北条氏照」(ほうじょううじてる)により築城された「八王子城」。

東京都八王子市元八王子町に位置し、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築によって築城されたと伝わっており、小田原城の支城(しじょう:本城を守るための補助として配置された城)としての役割を持っていました。

小田原攻撃に向かう武田信玄軍を相手にした防衛時、北条氏照が、当時本拠地としていた滝山城の防衛に限界を感じたことにより本拠地として採用されましたが、1590年(天正18年)、小田原征伐の一環として豊臣秀吉方の上杉景勝前田利家真田昌幸らに攻められ落城し、その後徳川家康によって廃城。

近年では、国の史跡に指定されており、日本100名城にも選定されています。

落城の悲劇

八王子城の落城には、悲しい結末が待っていました。

1590年(天正18年)、天下統一を目指す豊臣勢15,000人に攻められた八王子城は、当時の城主であった北条氏照とその家臣が小田原本城に駆け付けている最中であったため、城内にはわずかな将兵の他、領内から集めた農民、婦女子ら約3,000人がいるのみ。篭城し激戦するも、抵抗虚しく落城の憂目を見ることとなったのです。

落城の折、北条氏照の正室をはじめとした婦女子らが自刃、あるいは御主殿の滝に身投げしたため、滝が三日三晩血の色に染まったと伝わっています。

現在は、1951年(昭和26年)に国の史跡に指定されたことがきっかけで発掘調査が進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋(ひきはし)などが復元。2012年(平成24年)にはガイダンス施設が設置されるなど、整備されました。

滝山城(東京都八王子市丹木町)

94_滝山城跡

滝山城跡

滝山城」は、1521年(永正18年)、「木曽義仲」(きそよしなか)の末裔である「大石定重」(おおいしさだしげ)によって築城されたとされていますが、諸説あります。

東京都八王子市丹木町、多摩川と秋川の合流箇所に位置する平城で、かつては関東随一の規模を誇りました。

1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄の軍勢に攻められた折、落城寸前にまで追い込まれたことをきっかけに、北条氏照が本拠地を八王子城へ移したことで知られています。

現在は、国の史跡に指定されており、「続日本100名城」にも選定されました。

甲斐の虎・武田信玄を撃退した滝山城

滝山城の逸話と言えば、甲斐の虎と畏怖された武田信玄の撃退劇です。

1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう20,000人の武田信玄軍が滝山城を包囲し、別働隊の小山田信茂軍1,000人が小仏峠から進入しました。

これを迎撃したのは、滝山城の軍勢2,000人。圧倒的な軍勢の差があった中、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、あわや落城の一途を辿るところでしたが、なんとか持ち堪えました。

すんでのところで甲斐の虎を押し返した滝山城でしたが、この出来事を受けた北条氏照は、八王子城への本拠地移転を決意したのです。

現在、かつての城跡の大部分は桜の名所として有名な、「都立滝山自然公園」の敷地になっており、園内には本丸・中の丸・千畳敷跡、空堀などが残っています。

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