98_合戦浮世絵「織田信忠軍を攻める明智光秀」サムネ

織田信長を本能寺で討った「明智光秀」は、織田信長の長男である「織田信忠」(おだのぶただ)を討つという目標を掲げ、二条城にやってきました。13,000人の大軍を引き連れ、二条城を取り囲みます。織田家の家督を引き継いでいる織田信忠の命運を握るまでは、明智光秀に撤退はありません。

歌川芳虎作「武智光年大多春忠の居城をせめる図」

「武智光年大多春忠の居城をせめる図」は、二条城内に織田信忠が数百人の兵と共に立て籠もっている場面が描かれた作品です。

本合戦浮世絵を描いた「歌川芳虎」(うたがわよしとら)は、幕末期を代表する浮世絵師「歌川国芳」(うたがわくによし)の門人で、幕末から明治維新にかけての時期に最も活躍した浮世絵師のひとり。

歌川国芳は、錦絵を横に3枚連ねた広い画面の武者絵を多く手がけ、門弟である歌川芳虎にも、表現技法や特徴は継承されました。

なお、描かれている人物の名前が史実と異なっている点に関しては、江戸幕府が、天正年間(1573~1592年)以降の大名家や徳川家を題材にした浮世絵を描くことを禁止したことによります。

98_歌川芳虎作「武智光年大多春忠の居城をせめる図」

歌川芳虎作「武智光年大多春忠の居城をせめる図」

浮世絵[武者絵](合戦浮世絵/侍・武将浮世絵)
一般財団法人 刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて保有の「合戦浮世絵」「武将浮世絵」を解説や写真にてご紹介。

今年の大河ドラマは明智光秀が主人公

多くの人々がもつ明智光秀のイメージは、暗い印象

明智光秀

明智光秀

今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は、「明智光秀」。多くの人々が抱く明智光秀のイメージは、「裏切者」、「反逆者」、「策略家」など、あまり良いものではありません。

主君である織田信長を討った結果、手段を選ばずに自らがのし上がろうとする欲深い印象が、明智光秀には付きまといます。

しかし、大恩あるはずの主君・織田信長を討つ「本能寺の変」に明智光秀が及んだのは、何らかの理由があるはずです。多くの歴史家が本能寺の変への明智光秀の動機について、様々な推理をしています。

明智光秀が織田信長を一方的に恨んでいたとする説、織田信長を亡き者としたい黒幕的な人物がいて、明智光秀は命じられてやったとする説、領地替えされる不安におびえていたとする説など。

日本の歴史上で起きた出来事の中で、最も謎を呼び、最も白熱した議論が交わされてきたテーマです。

大河ドラマの舞台となっている京都府福知山市が「好きな戦国武将」について1,000人に調査を行なったところ、1位は織田信長で38%、2位は「真田幸村」で31%、3位は「伊達政宗」で27%となりました。明智光秀は14%で7位です。1番人気の織田信長は、20~70歳代までどの世代でも不動で、日本の歴史上、いかにスーパースターであるのかが良く分かります。

トップ10位内にランキングしているわけですから、明智光秀も人気武将と言って間違いありません。明智光秀のイメージを探ると、調査では20~30歳代が裏切者と回答する者が半数近くに達したのに対し、60~70歳代は35%以上が「教養人」、20%以上が「良君」と回答しました。

明智光秀のエピソードや、関連のある刀剣をご紹介!

明智光秀のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

織田信長のエピソードや、関連のある刀剣をご紹介!

織田信長のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

明智光秀が見せた良君の姿

年齢層が高くなるほど、明智光秀を教養人で良君ととらえているのは興味深いものがあります。若い世代よりも、年齢層が高い世代のほうが、長く生きて人生の辛酸を多く味わってきているわけですから、明智光秀に抱くイメージについても趣深い印象をもちます。

名古屋の人々にとっては、郷土の英雄である織田信長を下克上の末に討ったのですから、明智光秀は逆賊以外の何者でもありません。ところが、明智光秀を良君として今でも崇拝し、親しみを寄せている人々がいる土地があります。

98_明智神社

明智神社

福井県福井市の南東にある東大味町(ひがしおおみちょう)の一帯がそうです。町内の中心となる場所には、「明智神社」があります。周辺の人々は、神社そのものに親しみを込めて「あけっつぁま」と呼び、境内を掃き清めるといった手入れ、日々の参拝を欠かしません。

明智神社の本尊は、明智光秀をかたどった座高10cmほどの小さな木像。明智光秀の領地だった東大味で暮らしてきた人々は、数百年もの間、明智光秀への尊敬の念を絶やすことはありませんでした。小さな木像を明智光秀と重ね合わせて、地域での信仰の対象としてきたのです。

明智光秀は若い頃、越前国(現在の福井県)を治めていた大名「朝倉義景」(あさくらよしかげ)に仕え、東大味の地で数年間を過ごしていました。明智光秀はのちにこの地を去り、織田信長に仕えます。

1573年(天正元年)、朝倉義景と織田信長との間で争いが生じ、合戦が起こります。東大味は、朝倉家の本拠地である一乗谷と4km前後しか離れていない場所。明智光秀がかつて治めていた領地は、合戦に巻き込まれて荒れ果てるのは避けられません。

明智光秀が引き寄せた好縁

柴田勝家_3

柴田勝家

ところが、織田信長の配下である「柴田勝家」(しばたかついえ)から、「戦禍に巻き込まれないように、この地の民は、よその土地に逃げなさい」との安堵状(あんどじょう)が出されました。

明智光秀が柴田勝家に懇願し、特例を認めさせて安堵状が発行されたと伝わっているのです。かつての領地で暮らす見知った親しい者達が、戦乱に巻き込まれて生活や生命を脅かされる惨状を、明智光秀は忍びないと思ったに違いありません。

明智神社から西へ1kmも離れていない場所にある西蓮寺(さいれんじ)には、そのときに発行された安堵状が、大切に保管されています。安堵状を認めた柴田勝家も東大味では尊敬の対象であり、武士の公的な服装である直垂(ひたたれ)を着た柴田勝家の木像が西蓮寺に安置されているのです。

東大味の人達が今も、明智光秀と共に柴田勝家に対しても敬愛の情を寄せているのが良く分かります。この地の人々にとって、柴田勝家の存在は、明智光秀が引き寄せた良縁と呼べるのかもしれません。

明智光秀の良君としての姿を垣間見ると、裏切者、反逆者といった暗いイメージは振り払われ、明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」も、違った視点からより興味深く視聴できると思います。

柴田勝家のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

【関連サイト】
明智光秀 織田信長 柴田勝家 歌川芳虎 歌川国芳 浮世絵 武将 浮世絵 合戦 浮世絵 基礎知識 浮世絵 歴史 浮世絵 浮世絵師