伊達政宗2_thumb

眼帯と金色に輝く大きな三日月の前立てが印象的で、のちに「独竜眼」と呼ばれた仙台藩初代当主「伊達政宗」は、「あと10年早く生まれてきたら天下を取っていたかもしれない」とまで言われた実力の持ち主です。仙台藩62万石の基盤を築いた武将としても有名ですが、芸術や文化にも精通しており、能楽や漢詩に関しては武将随一と称されていました。

そして、意外にも自ら献立を考えては調理・配膳するほど料理の道を極め、いくつかの仙台名物の開発にもかかわったとされています。

そんな戦国時代きっての美食家・伊達政宗の料理男子ぶりについて探っていきましょう。

伊達政宗が料理にハマったきっかけは兵糧開発

ずんだもち

ずんだ餅

戦国時代には、領地をかけた戦が全国各地で繰り広げられていました。戦には、野戦など数時間で終わるものから、数ヵ月または半年以上も続く城攻めなどがあり、兵や武器・馬を揃えるだけではなく、戦場で兵士が食べる食料の準備も大事です。

勝利を手中に収めたい戦国武将達は、兵の戦闘能力を保つために欠かせない「兵糧」(ひょうろう:戦のときに食べる食事)をとても重要視していました。

兵糧に使われた食材としては、長期保存の利く米、味噌、大豆、塩などがあります。なかでも味噌に関しては、夏場になると腐ってしまうため、どの武将達も頭を悩ませていたのです。

この状況を打破するべく「伊達政宗」は、自ら兵糧の研究・開発に乗り出しました。この行動をきっかけに、伊達政宗は料理人としての道を歩み始めます

まず兵糧開発のために、長期保存しても腐らない軍用の味噌作りに取り掛かりました。仙台城下に「御塩噌蔵」(おえんそぐら)という味噌の醸造所を作り、高い品質で量産できる体制を整えたのです。これが「仙台味噌」の始まりと言われています。

1593年(文禄2年)の朝鮮出兵では、各武将達が持参した味噌が軒並み腐ってしまうなか、伊達政宗が持参した味噌だけが腐らなかったという逸話が残されているほどです。

その後、仙台藩2代目藩主「伊達忠宗」の時代になると、仙台から材料を取り寄せて江戸でも醸造されるようになりました。そして庶民の間でも仙台味噌として広く親しまれるようになったのです。

他にも、東北地方の伝統的な食材「凍み豆腐」や「ずんだ餅」も、伊達政宗の兵糧研究がきっかけで生まれたという言い伝えが残されています。

好奇心旺盛で何事にもチャレンジしたことで知られる伊達政宗がいたからこそ、これらの仙台名物は誕生したのです。

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伊達政宗
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まさに豪華絢爛!こだわりの60品目おせち

「仙台藩公儀史・大童信太夫の覚書」には、伊達政宗が食した食べ物の詳しい献立が残されています。

そのなかには、美食家の伊達政宗らしい豪華な正月料理についての詳細が記されていました。いわゆるおせち料理なのですが、本膳の前に御若水・御鏡餅・奥田餅、それに精進の御膳が並び、そのあとに雑煮と酒。次に「三汁十六菜」からなる本膳、二の膳、三の膳、御向と続きます。

使われた食材は60品目以上とも言われ、雑煮はアワビ・ナマコ・ニシン・ゴボウ・豆腐・黒豆・角餅と具だくさん。おせち料理には、鯨や白鳥の肉、仙台では獲れない伊勢海老など、贅沢な素材がふんだんに使われていたそうです。

こだわりは食材だけではありません。陰陽五行説に基づいた白・黄・黒・緑・赤を使った配色がなされ、見た目にも華やかに作られていました。調理方法もバリエーションに富んでいて、素材の味や舌ざわり・香りまで周到に計算されていたのです。

伊達政宗という料理人の美意識や創意工夫が、おせち料理を芸術の域まで高めたと言っても過言ではありません。

ちなみに、おせち料理の1品として食べられている伊達巻きは、伊達政宗が好物であったことから名付けられたという説もあります。

ただ、普段から贅沢な食事を摂っていたのかと言うと、そうではありません。普段の食事はとても質素だったそうです。

伊達政宗は、「朝夕の食事うまからずとも褒めて食うべし」
(出された食事が自分の口に合わなくても、うまいと褒めて食べればおいしく食べられるものだ)という言葉を残しています。

伊達政宗は、普段の食事はきっちり財布の紐を締めて節約し、特別なときには豪勢に使うといった、祭礼や祝い事などの日と日常の生活をしっかりと分けながら料理の道を極めていったのです。

徳川家三代に亘って自ら接待!

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徳川家三代

伊達政宗は「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の徳川家三代に亘って、江戸城下の仙台藩屋敷に招き接待しています。

外様大名の取り潰しが相次ぐなか伊達政宗は、自らの藩を守るために全国の名産品を連ねた饗応料理でもてなすことにしたのです。

このときも伊達政宗は、自ら献立を考えて、調理し配膳まで行なっています。2代将軍・徳川秀忠を接待した際には、徳川秀忠の側近が毒見をしようと追いかけてきたことに伊達政宗はとても腹を立てました。

料理に対して大きな志を持っていたからこそ、毒を盛るのではないか?と疑われたことが許せなかったのです。

こうした豪華な献立のおもてなしには、伊達政宗が茶道や能を通じて身に付けた華人としての美意識がおおいに役に立ちました。

これらのエピソードからも、伊達政宗は戦ではなく料理を通じて武将としての格を表現することで、安泰の日々を築こうとしたことがうかがえます。

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レシピ開発はトイレが1番?!

伊達政宗の名言のひとつに「少しも料理心なきはつたなき心なり」があります。これは「少しも料理の心得がない人は貧しい心の持ち主だ」という意味で、食べることだけではなく、献立を考える・料理をすることにも重きを置いていたのです。

伊達政宗が作った料理のレシピや献立は、トイレにこもって考えられた物だと言われています。トイレと言っても現代のような狭い空間ではなく、2畳ほどあるトイレ付の小部屋で、刀掛けの他に硯・紙・書物などを備えた書斎のような場所でした。

伊達政宗は朝の支度が済んだあとや日中の公務を済ませたあとに、トイレに2時間ほどこもってじっくりと献立を考えるのが習慣だったと言われています。

ちなみに献立を考えるだけではなく、書簡の執筆や重要な政治判断なども行なっていました。伊達政宗が残した功績は「トイレ」での時間が大切だったと考えられます。

伊達政宗の意外な一面は、妥協なき「グルメ武将」

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伊達政宗

平均寿命が30歳前後だった戦国時代において、その倍以上の70歳まで生きた伊達政宗は「食」に強いこだわりを持っていました。

戦国武将としても名高い反面、茶道や能を心得た華人として高い美意識を持ち、自己表現に長けた人物でもあったのです。

伊達政宗は、自ら台所に立って調理から配膳までを行なったことでも知られています。兵糧開発から始まった料理道を、最後には将軍達を接待できるまで極めました。

この実績があるからこそ、伊達政宗はグルメが多いと言われる戦国武将の中でもトップクラスの腕前を持った美食家として、歴史に名を残しているのです。

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