濃姫_8

「帰蝶」(濃姫)は「斎藤道三」の娘であり、「織田信長」の正室です。当時の文献は女性に関する記述が少なく、帰蝶の生涯も謎に包まれています。その中でも確かなことは、斎藤道三が「織田信秀」と和睦するため、帰蝶は政略結婚という形で、織田信長のもとに嫁いだということ。そして、このこと以外で明確に分かっていることは、非常に限られているのです。そこで今回は、帰蝶に関するいくつもの謎について、諸説をご紹介していきます。

そもそも名前は帰蝶?濃姫?それとも…

帰蝶」(濃姫)は、戦国時代に登場する女性で「斎藤道三」の娘であり「織田信長」の正室です。
ですが、帰蝶(きちょう)という名が本名かどうか明らかになっていません。帰蝶の本名や呼び名には、数多くの説があります。

帰蝶という名は、江戸時代に書かれたとされる「美濃国諸旧記」に登場する名前です。一説には本名とされていますが、その確証はありません。

次に、「絵本太閤記」や「武将感状記」で登場する濃姫
(のうひめ)。「美濃国(現在の岐阜県南部)の高貴な姫」という意味の通称です。

当時、女性は本名を明かさず出生地や居城に「姫」や「殿」、「方」を付けた形で呼ばれることが一般的だったため、濃姫も本名とは言えないのです。

他には、美濃国諸旧記に「鷺山殿」(さぎやまどの)と呼ばれていたという記述もあります。

しかし、これは帰蝶が鷺山城から織田信長のもとに嫁いだことによる呼び名のため、鷺山殿もまた本名とは言えません。

また、「武功夜話」では「胡蝶」という名前の他に「安土殿」と呼ばれていたとする説があったりもします。

このように帰蝶は、歴史的な文献上で数多くの呼び名がありどれが本名か分かっていないのです。

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帰蝶は明智光秀と「いとこ」だった?

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明智光秀

帰蝶は、「本能寺の変」を起こした「明智光秀」といとこだったとも言われています。

帰蝶は、1535年(天文4年)に生まれたとされ、父は斎藤道三、母は正室である「小見の方」(おみのかた)。小見の方は明智家の出身で、明智光秀の父「明智光綱」(あけちみつつな)の兄弟とされています。

ただし、根拠となっている「明智軍記」や「明智氏一族宮城家相伝系図書」は、信憑性が低いとされている文献。

明智光秀の出自には諸説あることからも、帰蝶と明智光秀が本当にいとこであったかは、明らかではありません

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帰蝶は15歳にして初婚ではなかった!?

帰蝶は織田信長の正室として有名ですが、織田信長との結婚が初婚ではありません

織田信長に嫁いだ当時、なんと15歳にして2度の結婚歴があったとされています。しかも、この2度の結婚は帰蝶にとって壮絶な経験となりました。

最初の結婚相手となったのは、美濃国の守護大名である土岐氏一門の「土岐八郎頼香」(ときはちろうよりたか)。斎藤道三が土岐家に誓った忠誠を示すため、いわば人質として帰蝶は嫁ぐことになりました。

しかし、1544年(天文13年)に、斎藤道三は尾張国(現在の愛知県西半部)を支配していた織田信秀との戦いの混乱に乗じて土岐八郎頼香に刺客を送り込み、自刃させています。
このとき、帰蝶はわずか10歳でした

帰蝶が2度目の結婚をしたのは1546年(天文15年)、12歳のときです。結婚相手はこちらも土岐氏の一族で、守護大名となった
「土岐次郎頼純」(ときじろうよりずみ)。最初に結婚した土岐八郎頼香の甥にあたります。

土岐次郎頼純は、守護大名の座に就いたとは言え、政権は斎藤道三が支配。斎藤道三は帰蝶を嫁がせることで、美濃の支配を確固たるものとしました。

しかし、結婚からわずか1年を過ぎた1547年(天文16年)、土岐次郎頼純は亡くなってしまうのです。死因は、土岐次郎頼純が斎藤道三の支配から脱却して実権を握ろうとしていたため、斎藤道三が暗殺したとされています。

帰蝶は10代前半にした2度の結婚でいずれも、夫が父に殺されるという結果になりました。

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織田信長に嫁いだあとの帰蝶は?

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織田信長

そして帰蝶は、1549年(天文18年)に、15歳で織田信長と3度目の結婚をします。斎藤道三と織田信長の父である織田信秀が和睦するにあたって、嫡男である織田信長のもとに帰蝶を嫁として差し出すことになったのです。

しかし、帰蝶が織田信長のもとに嫁いだことは文献から明らかであるものの、結婚後の様子については分かっていません。織田信長と帰蝶は仲睦まじい夫婦であったのか、それとも、政略結婚による冷めた関係だったのか明らかではないのです。

側室が生んだ「奇妙丸」(のちの織田信忠)を養子としていることから帰蝶は子宝に恵まれなかったことが通説とされています。

織田信長と帰蝶の夫婦に関する逸話は「武将感状記」に記されたエピソードのみ存在します。

その行状記によると、帰蝶は織田信長が毎晩床を抜け出すため、不審に感じて問い詰めると「斎藤家で家老が謀反を起こす計画があり、合図の火が上がるのを毎晩待っている」と明かされたと言います。その話を聞いた帰蝶は、斎藤道三に密書を送って通報。斎藤道三が家老を殺したのも、織田信長の計略であったという話です。

しかし、斎藤道三が家老を殺したという記録は残されておらず、そもそも、斎藤道三と織田信長の関係は良好だったとされています。武将感状記のこの話がもし真実であれば、殺伐とした夫婦関係が想像されますが、この話も信憑性が高いと言えません。

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帰蝶はいつまで生きていた?

結婚後の暮らしぶりが明らかではない帰蝶ですが、いつ亡くなったのか、没年も明らかではありません。

帰蝶が亡くなった時期は、3つの説があります。

ひとつ目は、帰蝶が織田信長と結婚したのち1582年(天正10年)に、本能寺の変が起こるまでの間に亡くなったとする説。
信憑性が高いとされる「信長公記」などの文献で、織田家の行事などに関する記述に帰蝶が登場しないことが理由です。

しかし、推測の域を出ないため、それを理由に帰蝶が早死にしたという確固たる証拠とするのは難しいと言えます。

2つ目は、帰蝶は本能寺の変で命を落としたとする説。
岐阜市には、家臣が本能寺の変で織田信長と一緒に亡くなった帰蝶の遺髪を埋めたとする、「濃姫遺髪塚」(のうひめいはつづか)という史跡があります。

しかし、織田信長が本能寺に立ち寄ったのは、備中国(現在の岡山県西部)で高松城攻めをしていた家臣の「豊臣秀吉」を支援するための道中。これから戦に向かうときに、正室の帰蝶を連れて行ったというのは考えにくいのです。

3つ目は、帰蝶は本能寺の変の以後も生きていたとする説。
江戸時代に書かれた「氏郷記」には、本能寺の変が起こった直後に「蒲生賢秀」(がもうかたひで)という人物が安土城から信長公御台などを避難させたとする記述があります。

信長公御台とは、織田信長の正室を指す言葉。そのため、この文献が正しければ、少なくとも本能寺の変の直後は帰蝶がこの世に存在していたということになります。

また「織田信雄分限帳」という織田信長の次男である「織田信雄」の家臣団一覧には、「安土殿」という記述があり、これは織田信長の正室である帰蝶を指しているとする説があります。

この2つの文献以外にも、帰蝶を指していると思われる記述がありますが、いずれも確実に帰蝶を指しているとは言えないため、3つ目の説も推測の域を出ていません。

まとめ~帰蝶の謎は解き明かされていく可能性もある~

斎藤道三

斎藤道三

帰蝶は斎藤道三の娘であり、織田信長の正室であるということは事実ですが、人生のほとんどが分かっていません。

帰蝶は文献に残されている記録が極めて少ないことから、これまでドラマなどで描かれてきた人物像の多くは、資料をもとにしたイメージによる創作です。美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の娘であることから、気丈な女性として描かれる傾向があります。

帰蝶について触れられているとされる数少ない文献も、後世に創作されていたり、当時の支配者の目線から描かれていたりするため、史実として何が正しいか判断するのは難しいのです。

しかし、現存する文献には、帰蝶と思われる記述が数多くあることから今後、帰蝶の新たな事実が判明する可能性があることも否めません。

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