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戦国時代に下剋上を成し遂げた人物と言えば、一代で美濃の油売りから一国一城の主まで登り詰めた「斎藤道三」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。斎藤道三は、乱世と言われた戦国時代で下剋上を成し遂げて、「美濃のマムシ」、「梟雄」(きょうゆう:残忍で荒々しい人物)と呼ばれ、恐れられた人物です。しかし、その最期は因果応報とは言え悲劇的でした。

そんな斎藤道三の生涯を見ていきながら、どのようにして下剋上を成し遂げたのかをご紹介します。

なぜ斎藤道三は美濃のマムシと呼ばれた?

斎藤道三」が「美濃のマムシ」と呼ばれたのは、主君の謀殺や乗っ取りなどの手法を用いて、一介の油売りに過ぎない人物が下剋上し、戦国大名にまで登り詰めたのが理由です。

斎藤道三は、1494年(明応3年)に山城国(現在の京都府の南半部)乙訓郡西岡で生まれたとされていますが、正確には分かっていません。先祖は代々、上皇の身辺警護を担う北面の武士でしたが、斎藤道三の父の代で浪人になりました。

斎藤道三は11歳で出家して妙覚寺(京都府京都市上京区)の僧になり、20歳で還俗(げんぞく:出家した人が俗人に戻ること)したのち、油問屋の娘と結婚したのを契機に、油売り商人に転じたとされています。

斎藤道三が下剋上するきっかけとなったのは、油売りとして行商中にかつての弟弟子であった僧侶と再会したこと。美濃国(現在の岐阜県南部)の守護大名である土岐氏の家臣である「長井長弘」(ながいながひろ)を紹介され、仕えるようになりました。

その後、土岐家では兄の「土岐政頼」(ときまさより)と弟の「土岐頼芸」(ときよりのり/よりよし)の家督争いが生じます。

斎藤道三が気に入られていたのは弟の土岐頼芸でしたが、美濃国の守護大名となったのは土岐政頼でした。これでは斎藤道三が出世できる見込みはありません。

そこで、1527年(大永7年)に土岐政頼に夜討ちをかけて、美濃国から追い出しました。その結果、土岐頼芸を守護大名の座に据えることに成功したのです。

しかし、斎藤道三はそれでも満足せず、1530年(享禄3年)には自らを取り立ててくれた長井長弘とその妻を、恩があるにもかかわらず殺害して、長井家を乗っ取るという行為に走ります。

そしてついに、1542年(天文11年)、今度は大桑城を攻め自らの手で守護大名にした土岐頼芸まで追い出したのです。

当然のことながら、土岐頼芸も美濃国から追い出されたまま引き下がることはできません。土岐頼芸は尾張国(現在の愛知県西半部)の織田氏のもとに逃げ、甥にあたる「土岐頼純」(ときよりずみ)は母方の越前国(現在の福井県北部)の朝倉氏を頼りました。

織田氏と朝倉氏という後ろ盾を得た土岐頼芸と土岐頼純は、斎藤道三から美濃国を奪還するために攻め込んできます。斎藤道三は、一時は劣勢となり織田軍に居城の稲葉城下まで攻め込まれたものの、返り討ちに成功しました。

濃姫_3

濃姫(帰蝶)

その後、斎藤道三は「織田信秀」の嫡男である「織田信長」に娘の濃姫(帰蝶)を嫁がせて、織田信秀と和睦します。
これにより、斎藤道三による美濃国の支配が決定的となり、戦国大名のひとりとなったのです。

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美濃のマムシの最期は…息子に殺された!

岐阜城

岐阜城

主君の謀殺や追放を繰り返した斎藤道三は、まさに美濃のマムシ。斎藤道三の立場からここまでの生い立ちを振り返れば、順風満帆と言える人生です。しかしながら、斎藤道三の栄華は長くは続きませんでした。

美濃のマムシと呼ばれ、主君の謀殺などを行なっていた斎藤道三の最期は息子の手によって葬り去られてしまいます

斎藤道三の長男である「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)は、1555年(弘治元年)、稲葉山城に呼び出した斎藤義龍の弟「斎藤孫四郎」(さいとうまごしろう)と「斎藤喜平次」(さいとうきへいじ)を酒に酔わせて殺害しました。

そして翌年の1556年(弘治2年)には、長良川の戦いで斎藤道三を討ち取ります。斎藤義龍は土岐氏の支持を得て17,000人の兵を率いていたのに対して、斎藤道三の兵はわずか2,700人程度。明らかに劣勢でした。

斎藤道三が兵を集められなかったのは、これまでの行為が道徳的に受け入れられなかったことや、失政によって家臣の信頼を損ねていたことなどが要因とされています。なお、織田信長は斎藤道三を助けるために援軍を送っていましたが、間に合いませんでした。

斎藤義龍が斎藤道三を討ったのは、斎藤道三が斎藤孫四郎と斎藤喜平次を「利口者」として溺愛し、斎藤義龍を冷遇していたことが理由として有力視されています。

斎藤道三は斎藤義龍の相続権を廃しようとしていたり、織田信長に対して「美濃国を息子ではなく、婿に譲る」といった書状を出したりしたのです。

この他に理由として挙げられるのは、親の復讐を果たしたとする説があります。

斎藤義龍の母は側室の深芳野(みよしの)で、かつては土岐頼芸の妾(めかけ)でした。そのため、周囲から「本当は斎藤道三の子ではない。本当の父親は土岐頼芸」と吹き込まれて、父親の恨みを晴らすために斎藤道三を殺したとする説もあります。しかし、父親が本当に土岐頼芸であったかどうかも定かではありません。

最終的に斎藤義龍は、自分には息子の斎藤龍興という跡取りがいるにもかかわらず、家督を他の者に譲られそうになるなど冷遇されていたため、父である斎藤道三を討つに至ったと推測されます。

斎藤道三は、戦国大名まで登り詰める権謀術数には長けていても、
領地の統治という面では一流とは言えなかったのです。

実際は親子二代で下剋上を成し遂げた!?

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斎藤道三

ここまでは、これまでの通説をもとに解説してきましたが、実は斎藤道三が一代で僧から油売りになり戦国大名まで登り詰めたという史実が揺らいでいます。

斎藤道三は、父である長井新左衛門尉と親子二代にかけて国盗りを成し遂げたとされる「国盗り二代説」が有力視されるようになってきているのです。

これまで斎藤道三一代とされてきた史実のうち、途中までは父である「長井新左衛門尉」(ながいしんざえもんのじょう)による功績ではないかとする説が唱えられています。

これは、近江国(現在の滋賀県)の守護大名の「六角承禎」
(ろっかくしょうてい)が家臣に宛てた書状「六角承禎条書」などの新たな文書の出現により、明らかになりました。

六角承禎条書には、「斎藤義龍の祖父の新左衛門尉(=長井新左衛門尉)は京都の妙覚寺の僧侶を辞めて、美濃国の混乱に際して出世し、父の左近大夫(=斎藤道三)は主君を討ち殺して諸職を奪い」という意味の記述があったのです。

つまり、京都の妙覚寺の僧を辞めて油売りとなり、土岐氏の家臣の長井長弘に仕えて重用されたところまでは、斎藤道三の父である長井新左衛門尉に関する史実。
土岐政頼と土岐頼芸の兄弟が家督争いをした辺りから、斎藤道三が活躍していると推測されているのです。

また六角承禎条書では、斎藤道三の父は、「長井秀弘」(ながいひでひろ)の家臣である西村家の家臣に取り立てられたのち、長井の姓をもらい受けたとされています。こうして家臣に取り立てられたのは、もともと北面の武士として武士の家系であったことも要因のひとつです。

この国盗り二代説が正しければ、斎藤道三は生まれながらにして武士であったことになります。
また、武士の家系であった斎藤道三の父が武士に登用されるハードルも高くなかったと考えられるのです。

国盗り二代説が真実でも美濃のマムシには変わりない

斎藤道三は、一代で油売りから戦国大名になったのではなく、親子二代で国盗りを成し遂げたのが真実であれば、下剋上のイメージは薄れます。

もともと下級武士の家柄であり、さらに斎藤道三自身が生まれながらの武士であったなら、一代で商人から武士という身分を越えた下剋上ではありません。

しかし、二代であったとしても、商人から戦国大名にまで登り詰めたのは稀有な事例のひとつです。

また、美濃のマムシと呼ばれた理由である、主君を追放した、謀殺したという数々のエピソードは、国盗り二代説が真実であったとしても、斎藤道三が起こしたことに違いはありません。

美濃国の国盗りを斎藤道三が一代で成し遂げたにしても、親子二代であったにしても、斎藤道三は美濃のマムシと呼ばれるだけのインパクトがある人物であったと言えるのではないでしょうか。

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