徳島城博物館では刀剣展示が豊富! - 刀剣ワールド
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- 徳島城の歴史
- 中世鎌倉期に阿波守護となった名流小笠原家
- 細川氏による最初の築城
- 戦国時代の三好家と土佐の長宗我部元親
- 蜂須賀家の阿波入国
- 徳島と名付けた蜂須賀家政
- 阿波を支えた水軍
- 徳島城と阿波おどり
- 徳島城の構造
- 徳島城博物館の見どころ
- 徳島城の常設展示
- 武家の暮らしが垣間見える刀剣
- 刀剣に関する特別展示や企画展示を開催
- 徳島城博物館近くのおすすめ飲食店
- 阿部珈琲館
- 懐花亭
- たきち駅前店
- 徳島城博物館近くのおすすめ宿泊施設(ホテル)
- ホテルアストリア
- アパホテル徳島駅前
- ダイワロイネットホテル徳島駅前
- 徳島城博物館と一緒に楽しみたいおすすめ観光スポット
- 千秋閣表御殿庭園
- 鷲の門
- 興源寺
- まとめ

「徳島城」の跡地、徳島中央公園内に位置している「徳島城博物館」。徳島城の歴史にまつわる文化財を展示しており、貴重な展示品も多数あることから、見どころが多い博物館。特に大名や徳島藩の変遷についての展示は圧巻で、刀剣も多数展示されているので、刀剣ファンや歴女には必見です。
徳島城の歴史
中世鎌倉期に阿波守護となった名流小笠原家
細川氏による最初の築城
室町時代に阿波を支配したのが、細川氏の一族です。足利尊氏に従っていた三河の細川頼春という武将が、阿波・伊予・備後といった中国・四国地方の守護となり、阿波における細川氏の基盤を作り上げました。
細川氏は、三河守護であった足利氏の傍系から出た一族で、三河細川荘の地頭であったことから細川氏を名乗り始めた一族です。足利尊氏が、後醍醐天皇と対立して九州に落ちのびたときに、中国・四国地方の勢力をまとめあげて反攻の基盤を作り上げた功臣となっています。
徳島城の前身である渭津城(いのつじょう)・猪山城は、室町幕府の初代管領となった細川頼之が築城したと伝えられています。細川頼之は、阿波の守護であった父、細川頼春のあとを継いで細川氏本流となる京兆家の租となりました。室町幕府における重臣で、3代将軍である足利義満を幼少の頃から輔佐した人物としても有名です。
一時、足利義満に疎まれたことにより、失脚して領国である讃岐の治政に努めていた時期もあります。細川頼之は、中国・四国を平定するなど武将として優れていただけでなく、文化教養にも秀でた人物でした。
城を築いたこの地が中国の渭水という場所を思わせる風景であったため、それに由来して風光明媚なこの場所を「渭津」と名付けたとも伝わっています。細川頼之が再び京都に戻ったあとは、弟の細川詮春が阿波の家系を継いで、阿波守護家を世襲しました。
細川氏の中でも、この家系は細川宗家である京兆家に次ぐ格式と位置付けられていた家柄です。上屋形と呼ばれた京兆家に対して、阿波守護家は下屋形家とも呼ばれていました。
戦国時代の三好家と土佐の長宗我部元親
戦国時代、細川家に替わって、阿波だけでなく畿内にまで勢力を拡大したのが、小笠原氏の庶流であった三好家です。この時代の三好家の拠点となっていたのが、勝瑞城 (しょうずいじょう)。室町時代に細川下屋形家が、勝瑞という地に守護所を築いたことから始まった城です。
室町時代後期に、畿内の京兆家の当主であった細川晴元と組んで堺を支配していた三好元長が、三好家の支配基盤を確立しました。三好元長の息子の代では、畿内に三好長慶、阿波勝瑞城には三好実休、淡路に安宅冬康、讃岐に十河一存という実の兄弟を配置した体制を構築することに成功。
細川晴元との対立が起こり三好元長が戦没してしまった直後こそ勢力が停滞しますが、三好長慶が当主に就くと細川晴元さえも凌いで最初の天下人と呼ばれるほどの実力を持つことになります。
しかし、三好長慶の晩年になると、家臣であった松永久秀の讒言により、実弟の安宅冬康を誅殺。次第に家中が混乱し始めて、三好家の繁栄が長く続くことはありませんでした。
松永久秀が下克上を果たして家中を乗っ取る形で畿内の三好本家は衰退していきますが、それでも阿波本国の統治は、三好実休の息子である三好長治と十河存保の兄弟によって続いていきます。
しかし、三好長治が領民に対して法華宗への改宗を強要するなど悪政が続いたため自害に追い込まれ、阿波国内と三好家にはまたも大きな混乱が生じてしまいました。その隙に乗じて阿波、讃岐への侵攻を開始したのが、四国統一を目論む「長宗我部元親」です。
三好家の立て直しを図っていた十河存保ですが、雌雄を決した中富川の戦いで長宗我部元親に敗北。敗れた十河存保は、豊臣秀吉を頼って大坂に撤退しました。この戦いにより阿波は、長宗我部家の支配下に置かれるようになったのです。
その後、本州において豊臣政権が確立された恩恵に与り、十河存保は讃岐十河3万石に復帰しました。
蜂須賀家の阿波入国
豊臣家の支配が確立されたのち、没落した三好家に替わり阿波の領主となったのが、豊臣恩顧の大名である蜂須賀家です。
豊臣秀吉は四国征伐で活躍し功を上げた蜂須賀正勝に報いるために、阿波一国の17万石を与えようとしました。しかし蜂須賀正勝がこれを辞したため、代わりに長男の蜂須賀家政に阿波の国が与えられたのです。
蜂須賀正勝は、木下藤吉郎と呼ばれていた頃から豊臣秀吉に仕えていた戦国武将です。豊臣秀吉が近江長浜城主となる頃には、筆頭家老になっていました。蜂須賀正勝が阿波の領地を辞退したのも、自身が老年になり豊臣秀吉の側を離れたくなかったためとも言われています。
徳島と名付けた蜂須賀家政
阿波に入国した蜂須賀家政は、勝瑞城に入城するのではなく新たな城を築くことを決めて、徳島城の築城に取り掛かります。これは、勝瑞城から本拠地を移すことで、人心の刷新を図るためでした。
新たな築城地の選定は、豊臣秀吉の意向によって渭津の地に決定します。それと共に地名を徳島へと改めて、城下町の建設を進めました。先進商業都市であった堺や、蜂須賀家の発祥の地である尾張から積極的に商人を誘致。
また徳島城が海に近く、大小河川が流れ込む河口付近に位置していたため、水運の利便性を活用した町造りが行われています。
阿波を支えた水軍
阿波は、平安時代後期の源平が争っていた時代から強力な水軍の活躍が続いた国でした。畿内にまで勢力を伸ばした三好家の背景には、紀淡海峡一帯の制海権を握っていた安宅冬康が率いる淡路水軍の存在があります。
また三好家が弱体化した戦国時代においても、三好方であった土佐泊城の森村春という水軍を率いた武将が、長宗我部元親の侵攻を唯一斥けることに成功しました。
森村春の阿波水軍は、朝鮮へ出兵した文禄・慶長の役での活躍で全国的にその存在を知らしめることとなり、徳島藩政下でも厚遇され3,000石の領地を与えられています。
正式に徳島藩の海上方として整備が進んで以降は、藩主の参勤交代の際に御座船を囲む大船団を形成するなど、海上交通において重要な役目を担いました。
河川交通や海上交通を通して発展してきた城下町の歴史や伝統は、現在も水の都と呼ばれる徳島市に脈々と受け継がれているのです。
徳島城と阿波おどり

徳島の夏の夜をダイナミックに彩る阿波おどりは、江戸時代から続く伝統ある夏の風物詩として有名です。毎年100万人もの観光客を集める徳島市阿波おどりですが、その発祥となったと伝えられているのが、徳島城の落成起源説です。
阿波おどりで流れる歌と言うと、「阿波の殿様 蜂須賀様が 今に残せし 阿波おどり 踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ そんそん」という歌詞が有名。阿波おどりと聞くと、この歌のフレーズを最初に思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
この歌は阿波おどりで歌われている代表的な歌「阿波よしこの節」で歌われている一節。徳島城が完成した際に、城下では無礼講が許されて、「好きに踊れ」というお触れから始まったという説に由来しています。
阿波おどりの起源には他にも諸説があるのですが、徳島城下町の発展の礎を築いた蜂須賀家への親しみを込めて、現代に至るまでこの説が語り継がれているのです。
阿波おどりには、沖縄や九州など、他の地方の文化が色濃く残されていることが特徴。その理由としては、南方から流れる黒潮を辿って各地との交流が進んでいた歴史的背景があります。特に城下が整備されると、河川交通を活用して着色に用いる藍を商う阿波商人が栄華を極めました。そうして徳島に伝わる在来の盆踊りに、阿波商人が持ち帰った遠方の伝統文化が混交されて、現在の阿波おどりが出来上がったのです。
約400年の間、毎年夏に開かれてきた阿波おどりですが、庶民のための祭りであり、武家階級の身分に連なる家は参加ができませんでした。阿波おどりでの熱狂は庶民最大の娯楽となっていて、その熱量が一揆につながってしまうことを懸念した藩がたびたび禁止令を発したほどです。
それでも踊りの伝統は途切れることなく続き、太平洋戦争後に大阪で開かれた日本万国博覧会などを契機として、全国的にも広がりを見せているのです。
徳島城の構造

徳島城は、1585年(天正13年)に築城が開始された城です。海沿いのデルタ地帯に位置しているため、複数の河川を利用して造られた連郭式の平山城となっています。
1873年(明治6年)の廃城令が施行されるまで、徳島藩政の中心地として機能していました。現在では当時の建物は残されていませんが、大手口となっていた鷲の門などが復元整備されています。
歴史ファンや城郭ファンにとって、徳島城で観ておきたいポイントとなるのが、「屏風折塀(折れ曲がり塀)と舌石」、「阿波青石で作られた石垣」の2つです。屏風のように折れ曲がり山形に突き出た形状が特徴の塀は、横から矢を射掛けることができるため防御性に優れた構造となっています。
そしてこの構造を支える支柱石の役割を果たしている舌石と呼ばれる小さな突起なのですが、これが残されているのは全国的に見ても珍しく、徳島城を訪れた城郭ファンにはぜひ見学しておいてもらいたい遺構です。
また徳島城には多数の石垣が残されているのですが、この石垣に用いられているのが阿波の特産品である青石。阿波で産出される良質な緑泥片岩のことで、形容の美しさに比して割れやすい性質を持つこの青石を、見事な野面積みの技法を用いて積み上げていることがポイントです。
近世城郭を構築する際に欠かすことができないのが、石垣積みの技法。当時の先進技術であったこの技術が徳島城に使われたのには、徳島城を築くとき、豊臣秀吉の仲介で比叡山延暦寺の僧侶が助力していたことが深くかかわっています。
石垣積みのプロ集団として知られていた穴太衆と呼ばれる石工集団は、比叡山延暦寺の麓に本拠地を構えていました。そのため徳島城の築城の際も、そのつながりから穴太衆の先進技術を駆使することができたのではとされているのです。
この築城には、豊臣秀吉の命によって、伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親と言った西国大名も参加しました。これが全国の「天下普請」の先駆けとなったという説もあるので、城郭ファンにとっては、多くの大名が動員された江戸時代以降の城郭普請の原点を知ることができるのではないでしょうか。
徳島城博物館の見どころ
そんな徳島城の歴史を観覧できるのが、徳島城博物館です。
実際の徳島城を50分の1スケールで表現した縮小模型や、徳島城に関する資料、蜂須賀氏の栄枯盛衰の史料など、様々な文化財が展示されています。どの展示品にも分かりやすい解説が付いており、歴史好きな方はもちろん、歴史に詳しくない方でも歴史旅行が楽しめるのがポイント。
特にチェックして頂きたいのが、日本で唯一現存している大名が使用していた和舟「千山丸」。国指定の重要文化財にもなっている千山丸は、大名が栄えていた時代の華やかさが知れます。
充実した常設展示以外に、特別展示や企画展示も開催されているので、何度訪れても楽しめるようになっているのも魅力のひとつ。ワークショップや講演会なども数多く開催されており、子供が参加できるイベントも多数あるので、家族で訪れても楽しめるのが嬉しいポイントでしょう。
徳島城の常設展示
徳島城博物館にある貴重な数々の展示品のなかから、その一部をご紹介します。
- 柳橋水車図屏風
「柳橋水車図屏風」は、徳島藩の藩祖となった蜂須賀家政が、豊臣秀吉から拝領した屏風と伝えられています。華美な装飾が珍重された安土桃山時代の作品にふさわしく、きらびやかな金色を基調とした六曲一双の屏風です。
宇治橋や水車などを配するこの描写はこの時代に流行していた構図で、弦月を表現するのに金銅版が用いられている貴重な作品。 徳島県の有形文化財にも指定されています。
- 千利休書状
徳島城下町を建設する際に、蜂須賀家政は多くの商人を呼び寄せています。その中のひとりが、魚屋道通という通称を名乗っていた堺豪商の「渡辺道通」。
渡辺道通の父は、蜂須賀正勝に仕えていた頃に戦没したため、渡辺道通は叔父であった千利休のもとで育ちました。そして阿波の大名となった蜂須賀家政に招かれて、徳島で活躍することになったのです。
この「千利休書状」の中身は千利休が渡辺道通に送った手紙で、蜂須賀家政に頼まれていた茶釜が見付かったので届けて欲しい、と依頼する内容になっています。徳島城下の発展に寄与した蜂須賀家の交流の様子が良く表れている史料です。
- 淡路焼和歌意匠茶碗
蜂須賀家政の代から始まり、明治時代まで続く蜂須賀家の徳島治政ですが、実は関ヶ原の戦いの折に、一旦領地を豊臣秀頼に返上しています。徳川方と豊臣方が東西分かれて争った戦いの中で、蜂須賀家政が豊臣家と近い立場にあったことから、豊臣家への義理を果たすために行われた外交的判断でした。
さらに、嫡男の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が徳川家康の養女と婚姻関係にあり、また蜂須賀家政自身も西軍の指揮官であった石田三成との折り合いが悪かったため、積極的に合戦に介入することを避けるために採られた方針です。
合戦後は、蜂須賀至鎮がわずかな手兵で東軍に参加していたことを認められて、阿波の領地は安堵となり、さらに淡路も加増されることになりました。
江戸時代後期に生まれた珉平焼は、淡路島の三原郡伊賀野村で生まれた焼き物技術です。京焼の技術を学んだ賀集珉平が開いた窯で焼かれた陶器のことで、淡路焼、伊賀焼とも呼ばれています。賀集珉平は、徳島藩の「御用御陶師」として活躍したことで、蜂須賀家との結び付きが強まりました。
「淡路焼和歌意匠茶碗」は、徳島藩最後の藩主である蜂須賀茂韶が、自詠の和歌を記した蜂須賀家旧蔵の茶碗です。明治期の廃藩置県が行われたあとの時代に作られた品と推定されており、幕藩体制が終了したのちも蜂須賀家が愛好していたことを示す名品です。


武家の暮らしが垣間見える刀剣
阿波の地において、多くの刀鍛冶を輩出してきた徳島南の海部。海部出身の刀鍛冶が作刀した刀剣は「海部刀」と言われ、重宝されてきました。
そのように海部刀の伝統が息づいていた土地柄であったため、蜂須賀家には室町時代から江戸時代までに作刀された数多くの刀剣が収蔵されていたとされています。
そんな刀剣が展示されている徳島城博物館には、実際に武家で使用されていた刀剣を多数展示。武士と密接にかかわっていた刀剣が、武家の暮らしぶりと共に展示してあります。
様々な武具も併せて展示してあるので、武士がどのように暮らしていたのか、武士にとって刀剣がどのような存在だったかが想像できるでしょう。
- 刀 銘 阿州泰吉作 天文二年八月一日 海部刀
海部刀は、海部川流域で栄えた刀工集団によって生み出された刀剣です。文献を辿ると、鎌倉時代末期に刀工銘を発見することもできますが、主に室町時代の古刀期から新々刀期まで盛んに作刀されていました。
海部の刀工は高い技術を有していた作者も多く、特に片切刃で刀身に銘を切った短刀や、棟が鋸刃造り(のこばづくり)となっている特異な作品があることでも有名。この鋸刃造りは、船上で綱などの船具を切るためにも使われていたことから、古くから海運の発達してきた阿波ならではの刀剣となっています。
徳島城博物館に所蔵されている「刀 銘 阿州泰吉作 天文二年八月一日 海部刀」は室町時代の刀工である泰吉の作で、古刀期の海部刀の特徴が良く表れています。
- 短刀 無銘 伝長船兼光
「短刀 無銘 伝長船兼光」は、徳島藩13代藩主である蜂須賀斉裕の愛刀として伝わっている短刀です。兼光は、光忠の系譜から始まる備前長船派の四代目の刀工として知られています。
刀身彫刻の代表的なモチーフとなる倶利伽羅竜を浮き彫りにした意匠が施されている名品で、身全体に研ぎ減りが目立つものの、茎部分の彫りは今でも精巧な技術を鑑賞することができます。
- 徳島藩御召鯨船 千山丸
江戸時代の西国大名の多くは、参勤交代のために藩船を有していました。海に囲まれた四国に領地のある徳島藩も例外ではなく、徳島藩の中老であり海上方も担っていた森家一族が、藩主の護送を取り仕切っています。
千山丸は最古の和船であり、また唯一現存する大名船です。川に囲まれた徳島城を出発して、御座船に乗り移るまでの交通手段として活用されていました。
本来は鯨船として捕鯨を目的としていましたが、小回りの利く使い勝手の良さから連絡船としても使用されていたのです。
13代藩主である蜂須賀斉裕の時代の船と刻印があり、その貴重な価値が認められて国の重要文化財に指定されています。
刀剣に関する特別展示や企画展示を開催
大名の栄えた時代の展示品を扱っているだけあって、武具・刀剣に関する特別展示や企画展示が多数開催されているのも徳島城博物館の特徴のひとつ。
企画展示は年に4回、特別展は年に1回開催されており、なかにはトークショーや展示解説などもある企画・特別展示もあります。
刀剣ゲーム等とのコラボ企画もあり、歴女や刀剣ファンであればより楽しむことができる展示が中心になっているのが魅力です。
徳島城博物館近くのおすすめ飲食店

徳島城博物館の近くでお茶やお食事を楽しめる、おすすめのスポットをご紹介します。
阿部珈琲館
懐花亭
たきち駅前店
徳島城博物館近くのおすすめ宿泊施設(ホテル)

旅行や観光の際に便利な、徳島城博物館近くのおすすめ宿泊施設(ホテル)をご紹介します。
ホテルアストリア
アパホテル徳島駅前
ダイワロイネットホテル徳島駅前
「ダイワロイネットホテル徳島駅前」は、徳島駅の目の前にあるアクセスの良さが魅力のビジネスホテル。こちらも全国にチェーン展開しているホテルなので、設備・サービス・アメニティーなど、どの点をとってもクオリティーが高いのが特徴です。
部屋が広めに作られているので、多くなりがちな荷物を広げられるのも嬉しいポイント。価格もリーズナブルなので、コストパフォーマンスは抜群のホテルです。
徳島城博物館と一緒に楽しみたいおすすめ観光スポット

徳島城博物館と一緒に回って楽しみたい、おすすめの観光スポットをご紹介します。
千秋閣表御殿庭園
鷲の門
徳島城博物館の南東に位置している鷲の門。1875年(明治8年)の徳島城取り壊しの際には、鷲の門だけ記念に残されましたが、1945年(昭和20年)の徳島大空襲で戦失。
その後、徳島市の市制100周年を記念して1989年(平成元年)に復元され、現在に至ります。
興源寺
まとめ
徳島城博物館は、徳島藩の歴史を学ぶことのできる博物館です。大名や武士の暮らしぶりが分かる展示はどれも興味深く、貴重な文化財も多いので、歴女や歴史ファンだけにとどまらず多くの方に向けての見どころがたくさんあります。様々な時代の刀剣が展示されているので、刀剣ファンにもおすすめ。
周囲には観光スポットも多く、旅行や観光に最適ですので、ぜひ一度徳島県への歴史旅行を計画してみて下さい!
コメント
コメント一覧 (27)
大名が使っていた舟とは興味深い。
徳島城博物館には、徳島県の有形文化財や刀剣が収蔵されているのも初めて知った。実際に使用されていた刀剣がどれだけ迫力のあるものなのか、じっくり見て回りたい!
徳島城博物館では武具や刀剣に関する定期的な特別展示や企画展示をしているみたいだけど、年に6回、季節のお茶会も開催しているらしい。入館料の他に茶券が必要だけど、誰でも参加できるのはうれしいな。(今はコロナのせいで中止になっているみたい)徳島中央公園を散策しつつ、徳島城博物館で知識を深めたいね。
明治維新まで利用されていた徳島城の歴史を知ることができる徳島城博物館は、かなり見応えがありそうで興味深いです。特に常設展示されている柳橋水車図屏風は、徳島県の有形文化財に指定されていることもあり、一度は目にしたいと思いました。
徳島城を縮尺50分の1で表現した模型も、とても気になるところです。模型を製作したのは、徳島県立貞光工業高等学校建築クラブだそうですね。徳島城がどんな構造をしていたのか、想像しながら徳島城博物館を見て回ったら楽しそうだと思います。
この時代は建築するときただ建てるのじゃなく、いまと違って外部からの攻撃パターンとか色々考えて建築してるから面白い!
枯山水が素敵です。
素晴らしいのでオススメしますよ。
彫刻が風格を感じます。
行きたいな〜。
訪れた方には見ていただきたい。
個人的にも調べてみます。
「麒麟が来る」のキャストが頭に浮かびました^ ^
たしかにコーヒーおいしい
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