五箇伝って何?
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日本全国でそれぞれの地域の特色を活かして、その魅力を発信する「ご当地キャラ」や「ご当地グルメ」。実は作刀においても、生産地ごとに異なるご当地の伝法があり、5つに分類されていることはご存じでしょうか。その伝法は「五箇伝」(ごかでん:同音で五ヵ伝・五ヶ伝とも表記する)と称され、刀剣の形状から刃文などの細部に至るまで、伝法ごとに様々な特徴があるのです。五箇伝という言葉を初めて聞いた刀剣初心者の方にも分かりやすく、その詳細について解説します。
知っておきたい五箇伝の基本
「五箇伝」(ごかでん)とは、刀剣の生産地の中でも、優れた名工や刀工集団を多数世に送り出し、その中心となった5つの地域で発生した作刀伝法のこと。
その内訳は、現在の京都府で繁栄した「山城伝」(やましろでん)、奈良県の「大和伝」(やまとでん)、岡山県東南部の「備前伝」(びぜんでん)、神奈川県の「相州伝」(そうしゅうでん)、岐阜県南部の「美濃伝」(みのでん)です。
刀剣の主な生産地を5つに分類した、この五箇伝の呼称が用いられるようになったのは、江戸時代以降、日本刀研究が発達したことがきっかけ。刀剣の研師であり、鑑定業を代々生業としてきた「本阿弥家」(ほんあみけ)は、五箇伝のことを「掟」(おきて)と称し、それぞれの伝法を基本として、刀剣鑑定を行っていたのです。
五箇伝それぞれの伝法には、刀剣の姿だけでなく、地鉄(じがね)や刃文など、いろいろな部位に特色が現れています。
そして伝法ごとに異なる作風は、刀工自身の子どもや門弟に伝えられたのはもちろんのこと、刀工達が別の地域に移住したことで、その土地の伝法と融合されて新たな技術を生み出すなど、多種多様な変化を遂げながら現代にまで伝えられているのです。
日本最古の鍛法 大和伝
平安時代前期以降、大和国で発生した大和伝は、五箇伝の中で最も古いと伝わる刀剣の鍛法。
日本史上、最初に樹立された政権である「ヤマト政権」が同国で発生したことにより、当時最先端であった大陸の文化や技術などが輸入され、同国において、刀剣の作刀技術を発達させることに繫がったと考えられているのです。
710年(和銅3年)、首都である「平城京」が大和国に開かれ、仏教が朝廷から手厚い保護を受けるようになると、寺院に奉納するための作刀を目的に、大和伝の名工達が様々な寺院のお抱え鍛冶となります。
その中でも、「当麻派」(たいまは)、「千手院派」(せんじゅいんは)、「手掻派」(てがいは)、「保昌派」(ほうしょうは)、「尻懸派」(しっかけは)と呼ばれる5つの流派は「大和五派」と称され、大和伝の発展に貢献。大和伝と言う場合には、この大和五派を指すことが一般的です。
大和伝の特色
優雅さNo.1!山城伝
平安時代中期以降、山城国で発生した山城伝。794年(延暦13年)に、日本の首都が平城京から「平安京」に移されると、大和伝に取って代わって山城伝が作刀の中心となります。
山城伝の始祖は、現在の京都府・三条にあたる地域に住していた公家であり、「天下五剣」の1振である「三日月宗近」(みかづきむねちか)を作刀した名工でもあった「三条宗近」です。
この他にも、「綾小路派」(あやのこうじは)や「来派」(らいは)、「了戒」(りょうかい)など、技量の高い流派や刀工が山城伝より登場しています。
その中でも「粟田口派」(あわたぐちは)は、鎌倉時代初期に「後鳥羽上皇」が創始した「御番鍛冶」(ごばんかじ)制度において、多数の刀工が選出された流派であったことから、いかに優れた刀工集団であったのかが窺えるのです。
山城伝の特色
日本一の刀剣の名産地 備前伝
平安時代後期以降、備前国で発生した備前伝は、日本刀の長い歴史の中で最大の派閥であり、刀剣の一大生産地の伝法であると評されています。
備前の地では、御番鍛冶のひとりである「則宗」(のりむね)が属した「一文字派」(いちもんじは)を始めとして、相模国の名匠「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)の高弟である、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに数えられた「長義」(ながよし/ちょうぎ)、「兼光」(かねみつ)が出現した「備前長船派」(びぜんおさふねは)など、優秀な流派が数多く存在していました。
その理由として、刀工それぞれの作刀技術が高いだけでなく、中国山地や吉井川流域が近かったことで質の良い砂鉄、水や炭といった作刀に欠かせない材料が手に入りやすかったことが挙げられます。
「日本刀の代名詞」と称される備前伝の刀剣は、品質の高さから多くの戦国武将達が佩刀(はいとう)し、その支持を得ていました。しかし、1590年(天正18年)に起こった吉井川の洪水で刀工達が亡くなったことにより、備前伝は絶えてしまったのです。
備前伝の特色
ハイレベルな鍛法を生んだ相州伝
鎌倉時代中期以降、相模国で発生した相州伝は、1185年(文治元年)に鎌倉幕府が成立し、鎌倉が「武士の都」となったことが
始まり。
5代執権であった「北条時頼」(ほうじょうときより)が、激しい合戦で用いることができる高品質な刀剣を求め、山城から「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)、備前から「福岡一文字派」の「助真」(すけざね)や「国宗」(くにむね)といった名工を鎌倉の地に呼び寄せ、作刀にあたらせたのです。
その後、相州伝の実質的な始祖と伝わる「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)が登場し、「郷義弘」(ごうよしひろ)や五郎入道正宗などが、その門人として活躍。
特に正宗は、相州伝を完成させた名工としてその名を全国に轟かせ、同時代における他国はもちろん、新刀期の「井上真改」(いのうえしんかい)や新々刀期の「水心子正秀」(すいしんしまさひで)といった後世の刀工達にまで、その作風に大きな影響を与えています。
相州伝の特色
刀剣需要に応えた最新の伝法 美濃伝
鎌倉時代中期以降、美濃国で発生した美濃伝の歴史は、弘長年間(1261~1264年)頃、質の良い焼刃土(やきばつち)を入手するために、九州の刀工「元重」(もとしげ)が美濃の地に移住したことに始まります。
その後、大和国出身で正宗十哲のひとりである「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)や越前国(現在の福井県北東部)から入った「金重」(きんじゅう/かねしげ)などが続き、元来大和伝系の伝法を用いていた美濃国で、相州伝の作風が加味され、五箇伝の中で最も新しい鍛法となった美濃伝が確立されたのです。
この他にも美濃では、関(現在の岐阜県関市)の「孫六兼元」(まごろくかねもと)や「兼定」(かねさだ)など、著名な名工が多数世に出ています。その背景のひとつが、美濃国が交通の要衝であり、その周辺諸国に戦国武将達が居城を構えていたこと。
さらには、有力な武士団を結成し、足利将軍家を支えていた「土岐家」が美濃国を領していたことなどにより同国における刀剣の需要が急増したため、それに応えるべく、優秀な流派や刀工がその隆盛を極めたと推測できるのです。
美濃伝の特色
美濃伝における一番の特色は、匂出来(においでき)の刃文のどこかに、「尖り刃」(とがりば)が交じること。これは、直刃調の刃文であっても必ず見られる作風です。
また、美濃伝の中でも関の刀工達が作刀した刀剣は「関物」(せきもの)と呼ばれ、美濃刀の代名詞となっています。関物のうち、戦国時代に大量生産された刀剣は「末関物」(すえせきもの)と呼ばれ、刀身の美術的価値よりも、実用向きであることを重視して作刀されていました。
そんな末関鍛冶を代表する名工・孫六兼元は、3本の木が並んだ様子を模した高低差のある尖り刃の一種「三本杉」と呼ばれる新しい刃文を開発しており、美濃伝の著しい特色のひとつになっています。
コメント
コメント一覧 (18)
「好きな刀は◯◯伝です。」とか言えるようになりたい!
徳川美術館の特別展で五箇伝を展示していたことがあったんだね。国宝の短刀や太刀を見る機会があったとはもったいないことをした。
ちなみに上杉謙信の愛刀「備前長船兼光」は、もともと越後の農民が持っていたという話があるんだけど、ある日雷が鳴ったときに、この刀が赤く染まったらしい。それでこの刀は「雷切」とか「雷切丸」とか呼ばれているそうだよ。
相州伝って五箇伝の中で最も難易度が高いとされる鍛法で作刀しているんだね。その難易度の高さだけあって、重量は軽減され刃も実に美しく仕上げてあることに感動した!現代であれば機械を使うことができるとしても、昔の人達はこれをすべて手作業で行っていたということを考えると日本人の技術力に驚かされるなあ。もう僕からみたら武器というよりは芸術品の部類だね。昔の人も同じことを思っていたんじゃないかな。
一文字則宗ですなぁ^ - ^
詳しく知ることができました。
有難うございます。
山城伝の地域が朝廷に近く天皇や貴族からの注文が多かったから刀剣も切っ先が細い優雅な形がはやったんですね。
昔は刀鍛冶師がそこらかしこにいたのかなぁ。
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