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天下統一まであと一歩のところまで迫った「織田信長」は、戦国武将の中でも特に有名な武将です。戦国武将は何かの方針や政策を決定するときは家臣と会議を行い、話し合いで決めることが通例でした。しかし、織田信長の場合は家臣の意見を聞かず、自分で判断することがほとんどで、他の戦国武将とは一線を画す存在でした。また、幼い頃からすでに他の子どもとは違った奇抜な行動が目立っており、「大うつけ者」と呼ばれていたこともあります。織田信長が、大うつけ者と呼ばれていた理由を詳しくご紹介します。

幼少期に大うつけ者と呼ばれた原因とは?

織田信長」は、1534年(天文3年)に、「尾張国」(おわりのくに:現在の愛知県西部)の戦国大名であった「織田信秀」の長男として誕生します。

2歳になる頃、織田家は尾張国の中でも強大な力を付けており、織田信長は那古野(なごや)城主となりました。

織田信長は、子どもの頃から暴れん坊で周囲と違う行動が目立ち、奇妙な少年だったと言われています。それが大うつけ者と呼ばれた原因です。

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派手な格好をしていた幼少期

子ども時代の織田信長が大うつけ者と言われた原因のひとつに、派手な格好をしていたことも挙げられます。

織田信長は子ども時代、現代の浴衣にあたる湯帷子(ゆかたびら)を常時身に付けており、さらに動きやすいように袖を取って着ていました。現在で例えると、バスローブを常時着用しているような状態です。この姿だけでも、いかに奇抜な格好をしていたかが分かります。

その他にも、存在感を示すために派手なの刀剣を帯刀し、豹柄と虎柄をあしらった派手な半袴を履いていました。

さらには、縄を腕輪のようにして、アクセサリーとして身に付けることもあったとされています。

目立っていた行儀の悪い行動

織田信長は、人の目を気にせずに街中で栗や柿、瓜などをかじりながら歩くなど、行儀の悪い行動が目立っていました。

幼少期の織田信長は、歩くときに人の肩からぶら下がっていたとされています。他人から見ると大変行儀が悪く、奇妙な行動です。さらにそこにお風呂上がりに着る湯帷子を常時身に付けていたため、余計に不気味に見えていたに違いありません。

戦国時代の子ども達は、勉学を身に付けるために寺子屋に通い、お坊さんから勉強を教えてもらっていました。

織田信長も学問を身に付けるために寺子屋に通いましたが、授業を真面目に受けず、態度も悪く、食事のときは人の食べ物を奪って食べることもあったというほど。他人と違うことを好んで行っていた織田信長は、とてもやんちゃな幼少期を送っていたのです。

父の葬式でも非常識な行動を

大うつけ者と呼ばれる原因を作ったエピソードのひとつに、父の葬式での非常識な行動がありました。

父の葬式は僧侶を300人集めた壮大な式典となり、織田信長はそこで喪主を務めることになりますが、織田信長は葬式に遅れて到着し、さらに喪服ではなくいつもの奇抜な身なりで現れました。葬式が進んでも、喪主としての役目を果たそうとせず、しまいには父の位牌に抹香を投げ付けて、そのまま式場を立ち去ります。

このような非常識な行動を取ったために、織田家の跡継ぎは大うつけ者だと、周囲の大名達の間で有名になりました。

しかし、そんな葬式での織田信長の行動を見ていたひとりの僧侶だけが、「彼は国持ち大名になるお方だ」と言ったとされています。

教育係である平手政秀を苦労させた

大うつけ者と呼ばれても、当の本人は気にする様子もありません。その後も奇妙で奇抜な行動を続けていきます。

そんな織田信長ですが、子ども時代から一国の主として育てるべく、教育係として「平手政秀」(ひらてまさひで:織田信秀、織田信長に仕えた戦国武将)という武将が任命されていました。平手政秀は織田信秀からかなりの信頼を受けていたため、織田信長の初陣では後見役も務めたほど。

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斎藤道三

1548年(天文17年)、織田信秀は長きに亘って争っていた「斎藤道三」(さいとうどうさん)と和解。和解の証として持ち上がった斎藤道三の娘の「濃姫」(のうひめ)と織田信長の縁談話を、平手政秀がまとめあげました。

国のための政略結婚が第一の目的でしたが、平手政秀は大うつけ者と呼ばれている織田信長も結婚すればマシな人間になってくれるのではないかと考えていたのです。

しかし、その期待通りにはならず、結婚しても織田信長は大うつけ者のまま。そのため、織田信長と平手政秀は次第に不仲になっていき、また、さらに不仲になるきっかけになる出来事が、平手政秀の長男であった「平手五郎右衛門」(ひらてごろうえもん)と織田信長との間に起こりました。

織田信長が平手五郎右衛門の持っている馬を要求し、平手五郎右衛門は「戦うために武士として馬を必要とするため馬の献上はできません」と答えたのです。これを織田信長が恨み、ますます平手政秀との溝が深まっていきます。

1553年(天文22年)、平手政秀は切腹して生涯を終えました。この一件には織田信長の行動が酷くなっていくのを見て、教育係として負い目を感じて切腹したという説があります。自分が死ぬことで織田信長が気持ちを改めて、行動を律してほしいという願いも込められていたとも。その他にも、柴田勝家と対立をしたためなど、自害をした理由には諸説あります。

しかし、平手政秀が自害したあとも、織田信長の行動がそれほど改善されることはありませんでした。ただ、さすがに平手政秀の死を目の前にしてショックを受け、反省したと言われています。

織田信長は春日井郡小木村に「政秀寺」(せいしゅうじ)を建て、冥福を祈り読経して平手政秀の御霊を供養しました。

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奇行は織田信長の仮の姿だった可能性も

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今川義元

平手政秀が自害した1553年(天文22年)、織田信長は濃姫の父である斎藤道三と初めて会見をすることとなります。そのときも織田信長は普段と変わらない格好で出向きました。

斎藤道三は、その姿を見た当初は舐めているのかと構えましたが、堂々とした受け答えを見て、織田信長がただならぬ人物だと感じたとされています。

そのため、幼少の頃から青年期における奇抜な格好や行動は、織田信長が周囲を油断させるための偽装だったのではないのかと考えられているほどです。

織田信長は成長すると、10年に及んだ弟との争いや「桶狭間の戦い」などといった有名な戦いを繰り広げることになります。そのころには大うつけ者の面影はなく、桶狭間の戦いではおよそ3,000の兵で「今川義元」の20,000~30,000の軍勢を撃破し、新進気鋭の青年武将となり、全国に名を轟かせていきました。

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