183_渋沢栄一

「日本資本主義の父」と称される「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。2021年(令和3年)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)の主人公として話題を集める一方、2024年(令和6年)度に刷新される新紙幣では、10,000円札の図柄となることも決まっています。

「渋沢栄一って、名前は聞いたことがあるけれど、いったいどんな人物?」そんな疑問を抱いたことはないでしょうか。渋沢栄一の生涯をたどりながら、その生い立ちや業績、人となりに迫っていきます。

渋沢栄一の功績
渋沢栄一に関連する人物、功績・教えについてご紹介します。

家業の手伝いで商才を育む

183_渋沢栄一の生家(中ノ家)
渋沢栄一の生家

渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が生まれたのは、江戸時代も終盤にさしかかった、1840年(天保11年)2月13日のこと。

家は武蔵国の榛沢郡血洗島村(はんざわぐんちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市血洗島)で藍玉(あいだま:藍の葉から作る染料を突き固めた物)の製造・販売と養蚕を営む裕福な農家でした。

渋沢栄一は幼い時分より、原料の買い付けから製造、販売までを担う家業の手伝いで商業的な感覚を養い、14歳の頃には原料となる藍葉の調達にも携わったと伝えられています。

こうした経験がのちのち、近代的な経済システムや制度を理解し、取り入れる合理的思考の素地となるのですが、才気あふれる渋沢栄一少年にはそんな未来がすでに見えていたかもしれません。

家業に従事して商才を育む一方、従兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ)から「論語」や「日本外史」を学び、さらに、在郷の元川越藩剣術師範「大川平兵衛」(おおかわへいべい)に師事して、剣術の神道無念流を習得します。

川越藩をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

反骨心に火を付けた領主代官の横暴

渋沢栄一が16歳のときのこと。当時、血洗島村のあった岡部藩では、祝い事など藩の行事があるたびに「御用金」として領地に借金をしていました。ところが借金とは名ばかりで、実際には返済しないことが前提の年貢のようなものだったのです。

渋沢家にも供出額が割り当てられ、渋沢栄一が父の代理として陣屋におもむくと、代官から金額を伝えられます。父に聞いてから受けると答えた渋沢栄一に対して、代官は引かず、すぐに承知しろと高圧的な態度でねじ伏せようとしました。

これが渋沢栄一少年の反骨心に火を付け、渋沢栄一は、代官からどんなに罵倒されても、頑として譲らず断って陣屋から帰ってしまいました。

帰る道すがら、渋沢栄一はこの屈辱を思い返し、強大な権力を持つ徳川幕府への反骨精神を燃え上がらせたと言われています。

無謀な計画から一転、新たな道へ

1861年(文久元年)、渋沢栄一は江戸へ出て儒学者「海保漁村」(かいほぎょそん)の門下生となり、また、北辰一刀流「千葉栄次郎」(ちばえいじろう)の「千葉道場」へ入門。

剣術修行を通して勤皇志士と交友を結び、やがて「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を敬い外敵を退けようとする思想)に目覚めます。

幕府への反骨精神を持つ渋沢栄一は、過激な尊王攘夷派となり、1863年(文久3年)には、従兄の尾高惇忠や「渋沢喜作」(しぶさわきさく)らと「高崎城」(群馬県高崎市)を乗っ取って武器を奪い、外国人の多い横浜港を焼き討ちするという大胆不敵な計画を立てたのです。

しかし、これは無謀すぎました。尾高惇忠の弟で従兄の「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)による懸命な説得もあり、計画を断念。親族に累が及ぶことを懸念した渋沢栄一は、渋沢喜作と共に京都へ向かいます。

ここで渋沢栄一の人生が大きく転換。江戸遊学の頃より交流のあった一橋家の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の口利きで、「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)に仕えることとなったのです。

183_平岡円四郎
平岡円四郎
徳川慶喜を含む、江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

西洋の先進性を目の当たりに!

平岡円四郎は、攘夷を論ずるより前に世界を知るべきだと渋沢栄一を諭します。

目を開かれた渋沢栄一は過去のいきさつへのこだわりを捨て、かつて敵視していた幕府の側である一橋家の家臣として家政の改善などに努めることに。

ひとつの考え方に固執しない、柔軟で自由な精神こそ渋沢栄一の真骨頂。一橋家でも、次第にその才覚が認められるようになりました。すると、さらなる飛躍のチャンスに恵まれます。

1866年(慶応2年)、主君の徳川慶喜が15代将軍となり、幕臣となった渋沢栄一は、翌年、将軍の名代で「パリ万国博覧会」(パリ万博)に出席する「徳川昭武」(とくがわあきたけ:徳川慶喜の異母弟。のちの水戸藩主)の随員として、フランスへ渡航することになったのです。

徳川昭武をはじめ、江戸幕府を治めた徳川家についてご紹介します。
水戸藩をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

ヨーロッパで近代資本主義を知る

渋沢栄一ら徳川昭武一行はパリ万博を視察した他、ロンドンやフィレンツェ、ミラノ、ジュネーブ、アムステルダムなど、ヨーロッパ各国の都市を訪問。西洋社会の実情に直接ふれ、日本より遥かに進歩した鉄道や兵器、科学技術などを目の当たりにして、驚きを隠すことはできませんでした。

なかでも渋沢栄一の心を掴んだのは、銀行を中心に据えた経済構造と、株式会社による近代資本主義のあり方です。

「ヨーロッパの近代国家を支えているのは強力な軍事力だけではない。商工業の自由な取引こそ重要だ。日本もおくれを取ってはならない」と、そう痛感した渋沢栄一は、日本改革への決意を新たにします。

「八百万の神の一柱として」と説かれるも…

渋沢栄一がヨーロッパに滞在している間、日本では大政奉還により社会が大きく変わっていました。

1868年(慶応4年)、明治新政府から帰国を命じられた徳川昭武と共に帰国した渋沢栄一は、静岡で謹慎していた徳川慶喜と会い、その後静岡に「商法会所」を設立します。

この商法会所は、フランスで学んだ株式会社制度をベースとして、物産販売をする商社と、商品を担保に融資を行う銀行的な業務をかね備えた会社でした。

商法会所は順調に発展。そこへ明治新政府からの呼び出しがかかりました。渋沢栄一は、財政や租税を扱う民部省で力を尽くすようにと招かれたのです。

一度は辞退したものの、のちに総理大臣となる「大隈重信」(おおくましげのぶ)らに説得され、民部省を統合した大蔵省(現在の財務省と金融庁)に出仕します。

このとき大隈重信は、「新政府は、八百万の神が集まって新しい日本をつくっている。君も神の一柱となってくれ」と言い、説き伏せたそうです。

183_大蔵省時代の渋沢栄一
大蔵省時代の渋沢栄一

こうして財務省の役人となった渋沢栄一は、日本の近代化を推し進めるべく、造幣や財務、地方行政、殖産興業など積極的に取り組みますが、障害も多く物事は一筋縄ではいきません。

渋沢栄一を招いた大隈重信や「大久保利通」(おおくぼとしみち)との意見対立などもあり、1873年(明治6年)には退官することとなります。

「自分の力が発揮できるのは役人ではない」という考えのもと、渋沢栄一は一民間人となり、実業家として自らの道を切り拓くことを決めたのです。

生涯にかかわった企業は約500社!

183_第一国立銀行跡(銀行発祥の地)
第一国立銀行跡

大蔵省を退官した渋沢栄一が最初に担ったのは、自身が設立を指導した「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の総監役でした。

渋沢栄一は、少年時代に学んだ「論語」の精神を自らの基軸とし、「私利私欲にまみれ、営利のみを追求するのではなく、多くの人々に利益をもたらし、社会の役に立つ実業家になろう」と心に誓っています。

この理念は「道徳経済合一説」と言い、1916年(大正5年)に刊行された著書「論語と算盤」(ろんごとそろばん)に表されました。

渋沢栄一は第一国立銀行を通して、全国に設立された国立銀行の指導や支援を行った他、株式会社組織による新興企業の創業指導や資金援助に力を注ぎます。現代も日本経済をリードする大企業をはじめ、生涯におよそ500社もの企業の立ち上げにかかわったのです。

多くの企業を成功に導いた渋沢栄一ですが、自らの名を企業名に冠することはありませんでした。自分のカラーを押し出すことはせず、有能で信頼できる人物に経営を任せるなど、人的ネットワークを広げていったのも大きな特徴です。

渋沢栄一の理念は、公益事業への取り組みにも

183_東京都健康長寿医療センター
東京都健康長寿医療センター

渋沢栄一が力を尽くしたのは株式会社の創設・育成だけではありません。生涯で約600の社会公益事業や教育機関を支援し、民間外交にも貢献しました。

社会福祉事業の草分けとなった「養育院」(現在の東京都健康長寿医療センター)の初代院長を務めたことや、「日本赤十字社」の設立にかかわったことは広く知られています。

また、渋沢栄一は公益事業や慈善活動にも「そろばん勘定」、つまり経済性が必要だと考えていました。もちろん、公益事業で利益を上げようなどと思っていたわけではなく、公益事業も慈善活動も、持続させるためには経済性を重視し、計画的に行わなければならないということです。

そのおかげで、多くの組織が現在も精力的に活動を続け、渋沢栄一の精神が受け継がれています。

お札の顔としてふさわしい人物

渋沢栄一の生涯を追っていくにつれ、お札の顔としてふさわしい、偉人としての人物像がはっきり見えるようになりました。

新10,000円札が実業家の渋沢栄一、新5,000円札が教育者の「津田梅子」(つだうめこ)、新1,000円札が医学者の「北里柴三郎」(きたさとしばさぶろう)。なかなかバランスの良いラインナップではないでしょうか。

利益は独占するのではなく、社会へ還元するべきという渋沢栄一の理念は、現代の企業経営でも基本となっていますし、またそうであってほしいと願っています。

もし、渋沢栄一がいなかったとしたら、日本の資本主義が欧米諸国に肩を並べることはなかったのかもしれません。

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