松永久秀_サム

「松永久秀」は、素性に謎が多い人物です。京都西岡出身の商人という話も伝わってはいますが、信憑性は定かではありません。しかしその名が現代まで伝わっているのは、松永久秀が「悪党」として名を轟かせたこと、そして「爆死した武将」として有名であることが理由です。松永久秀とは一体どんな人生を辿った人物なのか、人となりや死生観を紐解きます。

主君の権力を奪う!?松永久秀の下剋上

松永久秀」(まつながひさひで)は、管領「細川晴元」(ほそかわはるもと)の執事をつとめる「三好長慶」(みよしながよし)に仕えていました。

三好長慶が将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を京都に迎え入れると、松永久秀は三好家の家宰(家老)として台頭。その後、奈良北方の丘陵に「多聞山城」(たもんやまじょう)を築いて拠点とし、歴史に残る様々な「悪行」を成し遂げることとなります。

悪行として様々な説が語り継がれていますが、そのうちのひとつが主君である三好長慶の長男「三好義興」(みよしよしおき)を毒殺した説です。

三好義興は、22歳の若さで黄疸(おうだん)のため死亡したと伝えられていますが、「足利季世記」(あしかがきせいき)には、三好義興の死は「身辺に侍っていた召使いが食物に毒を入れた。これは松永久秀の仕業だった」との記述があります。しかし真偽については定かではありません。

三好長慶は、頼りにしていた末弟「十河一存」(そがわかずなが)を病で失いました。傲慢なところがあった三好長慶をそれとなく諫めてくれる賢い三弟「安宅冬康」(あたぎふゆやす)に至っては、三好長慶自らの手で殺害する羽目に陥ります。

三好長慶が松永久秀に「近ごろ安宅冬康どのには謀反の恐れがあります」と告げられ、松永久秀の謀略とも知らずにその言葉を聞き入れてしまったためです。

安宅冬康を「飯盛城」(いいもりじょう)で成敗した三好長慶は有能な弟達を次々に失い、その結果、晩年には元気がなくなっていきました。

三好長慶自身も主君・細川晴元を追放して畿内と四国を手にした下剋上の梟雄(きょうゆう:残忍で強く荒々しい人)でしたが、今度は松永久秀が同じように下剋上を成し遂げたのです。

松永久秀のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

東大寺大仏殿を焼き討ちする松永久秀の非道な振る舞い

東大寺
東大寺

若き日の勢いを失った三好長慶が病で没したのが、1564年(永禄7年)のこと。その翌年の1565年(永禄8年)、松永久秀は、10,000の兵を引き連れて室町幕府13代将軍足利義輝の居所である二条御所を急襲しました。

「剣豪将軍」と呼ばれていた足利義輝は松永久秀の軍に対して抜刀して戦いましたが、奮戦虚しく松永軍の凶刃に倒れます。

足利義輝の暗殺を果たした松永久秀は、不仲であった三好三人衆(三好長逸[みよしながやす]・三好宗渭[みよしそうい]・岩成友通[いわなりともみち])と対決。半年もの間攻防戦を繰り広げましたが、松永久秀は1567年(永禄10年)、三好三人衆が立てこもる「東大寺大仏殿」の焼き討ちを決行したのです。大仏殿は全焼し、大仏の首も焼け落ちました。

大仏殿を全焼させ、大仏の首まで落としたことに対し、人々は激しく非難しました。これに対して、松永久秀は「木材とはりがねでできた大仏を焼いたところで何の罰が当たろうか」とうそぶいていたと伝えられています。

松永久秀が悪党と呼ばれたのは、主君を騙して下剋上を果たし、大仏にさえ火を放つという行為が原因となっているのです。

しかし、京洛で急速に権勢をのばした松永久秀も「織田信長」の勢いには敵いませんでした。

1568年(永禄11年)、松永久秀は織田信長に多聞山城を明け渡して降伏することとなりましたが、降伏したのちも、松永久秀の心には織田信長への敵意がくすぶり続けていました。

織田信長が「徳川家康」に松永久秀を紹介する際に、過去の下剋上や大仏殿焼き討ちの悪行をからかい、「常人にはできないようなことをやり遂げた奸悪者だ」と言ったと「常山紀談」(じょうざんきだん)に記されています。

降伏した相手とは言え、からかうように言われたことが松永久秀にとっては許せなかったのです。

決して手放さなかった平蜘蛛釜に見る織田信長への敵意

織田信長_29
織田信長

戦乱の最中にあった戦国時代において、心身ともにリラックスさせる茶の湯は戦国武将にとって大切な時間のひとつ。それ故に、この時代の武将達は由緒ある茶器、名器を大切にしていたのです。

それは松永久秀も同じでした。茶器と名器の収集家としても世に知られており、なかでも蜘蛛が地面に這いつくばったような形の「平蜘蛛釜」と高価な茶器「つくも茄子の茶入れ」は、松永久秀の自慢の一品です。

織田信長に降伏した際につくも茄子の茶入れは呈上しましたが、織田信長が最もほしがっていたという平蜘蛛釜はついに手放さず、手元に残しています。この点からも、松永久秀の心に残る感情を知ることができます。

その後も、松永久秀は織田信長に対して密かに敵意を燃やし続けていました。それがいよいよ爆発したのが、1577年(天正5年)。松永久秀は、息子の「松永久通」(まつながひさみち)と共に反旗を翻します。

しかし、2度目の下剋上は失敗。同年10月10日、織田信長の嫡男「織田信忠」に居城の「大和信貴山城」(やまとしぎさんじょう)を攻められ、父子ともに自刃に追い込まれました。その直前の平蜘蛛釜を巡る逸話が残されています。

「茶窓間話」(ちゃそうかんわ)によると、松永久秀はいよいよ自刃するとなったそのとき、平蜘蛛釜を木っ端みじんにたたき壊し、「この名物とわしの首を織田信長に渡してなるものか」と炎上する城内で自刃したと記されています。茶釜とともに爆死した逸話が有名ですが、実際にはこれが松永久秀の最期です。

死に至るその瞬間まで織田信長への敵意を燃やし続けていたことが、この逸話からも伝わってきます。松永久秀は城や茶器など、様々な物を織田信長に召し上げられてしまいましたが、それでも平蜘蛛釜と自らの首だけはついに守り切ったのです。

織田信長のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
織田信長のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

最後まで見栄を大切にした松永久秀

松永久秀は世間体を気にしており、情けない姿を見られることを嫌っていました。

反旗を翻すも失敗に終わった2度目の下克上。爆死とまで言われるような激烈な最期からも、織田信長に面目を潰された松永久秀の怒りを知ることができます。

松永久秀は、最後まで「見栄」を大切にした武将なのです。

【関連サイト】
松永久秀 足利義輝 三好長慶 徳川家康 織田信長
武将・歴史人の日本刀
武将・歴史人のエピソードや、関連のある刀剣をご紹介します。
旅探「全国の神社・寺・教会」
旅探で日本全国の神社・寺・教会を簡単検索!