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多くの戦国武将達が天下統一を目指した戦国時代において、生涯で57回もの戦に出陣しながらも傷ひとつ負わなかった猛将「本多忠勝」は、江戸幕府の開府のために功績を挙げた「徳川三傑」のひとりです。天下三名槍として名高い「蜻蛉切」(とんぼきり)を振りかざし、天下人「徳川家康」のために戦い続けたその実力は、敵将にも認められるほどでした。天下無双と称され、その名を轟かせた本多忠勝の最強伝説に迫ります。

まるで生き様!名前の由来は「ただ勝つのみ」

本多忠勝」(ほんだただかつ)は、徳川家の始祖である松平家に仕えていた「本多忠高」(ほんだただたか)と母「小夜」の長男として、1548年(天文17年)2月8日、三河国(現在の愛知県)で誕生しました。

名前の由来「ただ勝つのみ」は、戦乱の世を生き抜けるよう親の願いが込められていると言い伝えられています。

出生からわずか1年後の1549年(天文18年)、今川氏との間で起こった「安城合戦」で父の本多忠高が戦死。母ともども叔父「本多忠真」(ほんだたださね)に引き取られ、幼少期を過ごすことになりました。

初陣を果たしたのは、1560年(永禄3年)、13歳の頃。「桶狭間の戦い」の前哨戦(ぜんしょうせん)「大高城兵糧入れ」で敵将に討ち取られそうなところを叔父・本多忠真に助けられ、本多忠勝は手柄を立てるどころではありませんでした。

それから2年後の1562年(永禄5年)、「鳥屋根攻め」では本多忠真が本多忠勝に手柄を譲ろうとしますが、「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや 」(人の力を借りてまで手柄は欲しくない)とその申し出を拒否し、自ら敵陣へと攻め入って、敵の首を取ってきたというエピソードが残っています。

このときから猛将としての片鱗を見せはじめた本多忠勝は、名前の由来「ただ勝つのみ」を体現するかのような人生を歩み続けていくのです。

本多忠勝のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
本多忠勝のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

徳川家康への揺るぎない忠誠心が魅せた勇猛さ

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徳川家康

天下無双と称えられた本多忠勝は、「徳川家康」に忠義を尽くした武将でした。

1563年(永禄6年)に勃発した「三河一向一揆」で、本多一族は信仰心を理由に一揆側に付きましたが、本多忠勝は身内を敵に回すと分かっていながら徳川家のために改宗して戦いました。

この働きが徳川家康の目に留まり、1566年(永禄9年)には徳川家康直属の部隊「旗本先手役」に抜擢。19歳という若さで54騎を率いる武将になったのです。

1572年(元亀3年)に「武田信玄」が実行した「西上作戦」(せいじょうさくせん)では、偵察部隊として天竜川へ向かう途中に武田軍の先発隊と遭遇。徳川本隊は撤退を余儀なくされ、殿(しんがり)を務めた本多忠勝は武田軍と交戦することになりましたが、無事に徳川本隊を逃すことに成功しています。

家臣として命懸けで主を守ろうとする姿は鬼気迫るものがあり、その戦いぶりを目の当たりにした敵側の隊長「小杉左近」(こすぎさこん)は有名な狂歌を詠みました。

「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」
(ヤクの尾毛を使った珍しい愛用の兜と本多忠勝は、徳川家康にはもったいない)。

これがきっかけで、本多忠勝の武功が近隣に広まったと言われています。

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戦国三英傑に愛された天下無双の武将

徳川家康が天下統一し江戸幕府を築くまで続いた戦国時代において、本多忠勝ほど戦に勝っても負けても世に名を轟かせてきた武将はいません。かの「織田信長」や「豊臣秀吉」も、本多忠勝を家臣として欲しがったという逸話が残っています。

織田信長は、本多忠勝を「花実兼備の武士」(外見や人気ばかりではなく、実力も備えている武将である)と称え、徳川家康に「本多忠勝を家臣に欲しい」と申し出ましたが断られます。

また、豊臣秀吉にその天下無双ぶりを「日本第一古今独歩の勇士」と言わしめ、直接家臣にならないかと誘われましたが、本多忠勝本人が「豊臣秀吉様にも恩がありますが、徳川家にはそれ以上に恩があります。」と丁寧に断りました。

戦国三英傑」と称される織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に愛された本多忠勝は、名実ともに最強の戦国武将と呼ばれるようになったのです。

生涯で57回もの戦に出陣しながらも傷ひとつなし!

本多忠勝は、初陣から天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」まで、のべ57回にも及ぶ戦に出陣し、徳川家康の窮地を幾度となく救うために命懸けで戦いに挑みました。

1570年(元亀元年)に行われた「姉川の戦い」では、敗走寸前まで追い込まれた際に血路を開くために単騎で敵軍の正面を強行突破。その後の1575年(天正3年)の「長篠の戦い」、1581年(天正9年)の「高天神城の戦い」でも手柄を挙げています。

本能寺の変」の直後は、討たれた織田信長を追って自刃しようとした徳川家康を励ましてわずか30人で「伊賀越え」を成し遂げ、主の命を守りました。

1584年(天正12年)、豊臣秀吉と徳川家康が対立した「小牧・長久手の戦い」では、城の留守の役目を命じられていた本多忠勝は、わずか500騎の援軍を引き連れて出陣し、敵の妨害を成功させたのです。

1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いでは、「軍監」(東軍の最高司令官)を務めました。本来なら作戦指揮が主な役割ですが、本多忠勝は自ら攻め込み多くの首を挙げ、最後まで戦場で自らの忠義を通します。

戦に関する逸話は、本多忠勝の忠誠心の素晴らしさや主を命懸けで守ろうとする覚悟がうかがえるものばかりです。窮地に追い込まれても、自ら戦場に切り込み、傷ひとつ負うことなく戦ったと言われています。

その功績が認められ、戦後の1601年(慶長6年)に上総国大多喜藩(現在の千葉県夷隅郡)から伊勢国桑名藩(現在の三重県桑名市)10万石に領地を移動。本多忠勝は藩政を確立するため「桑名城」を築城します。

141_桑名城 蟠龍櫓
桑名城 蟠龍櫓

それと並行して城下町と東海道宿場の整備を進め、桑名の発展に貢献した「桑名藩創設の名君」としても名を残したのでした。

その後は体調を崩しがちになり、晩年になると眼病にも苦しめられていた本多忠勝は、1609年(慶長14年)に息子の「本多忠政」(ほんだただまさ)に家督を譲って隠居しました。

翌年1610年(慶長15年)、小刀で彫り物をしている最中に手を滑らせてけがを負ってしまいます。けがを負った数日後、63歳でこの世を去りました。

徳川家康を生涯支えた猛将・本多忠勝

本多忠勝が仕えた徳川家康には、戦における武勇伝はあまり存在しません。しかし、徳川家が築いた江戸幕府は、265年間もの長い間続きました。その理由は、本多忠勝をはじめとする優秀な忠臣達に支えられていたからです。

また、天下無双の猛将として「徳川三傑」とうたわれた本多忠勝が戦ったあとには、その働きぶりを称える歌が詠まれ、敵将からも称賛の言葉が贈られました。幼少期から徳川家康に仕えた本多忠勝の逸話は、まさに猛将としてふさわしい話ばかりです。

辞世の句では、「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」(死んでしまったら、主君の徳川家康から受けた恩を返せなくなる)と詠み、最期のときまで徳川家康に対して忠義と深い愛情を持った、家臣の鑑のような人物でした。

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