150_藩とは何か?

「藩」と言えば、江戸時代の幕藩体制ですが、現在の「都道府県」ぐらいに思っていたとしたら大間違い!藩を所領する大名は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」との関係性によって決まり、その後も石高が増減し、謂わばサバイバルの状態だったのです。江戸時代の藩とは一体どのようなものであったのか、ご紹介します。

藩と石高の関係は?

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徳川家康

「藩」とは、江戸幕府から1万石以上の「石高」(こくだか)を与えられた大名が統治した領土と領民のことです。

1603年(慶長8年)、「徳川家康」が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開くと、幕府が武家政権の頂点となり、幕府の直轄地以外は各大名に領地を与えて権限を持たせました。

石高とは、土地の生産力(経済力)のこと。1人が1年間に食べるお米の量が1石で、お米1石の収穫ができる田の面積は約0.1ヘクタールです。この1石を現在価値に換算すると、約10万円になります。

なお、「加賀100万石」という言葉をよく聞きますが、これは「前田利家」が初代藩主となった加賀藩の石高を表した言葉です。これを現在価値に換算してみると、100万石は10万円×100,000ヘクタールの価値。

つまり、加賀藩は何と年商1,000億円の藩という意味だったのです! 現在価値に直してみると、どんなに凄いのかよく分かりますよね。絢爛豪華と憧れられたのも納得です。

そんな大名達の石高は、どのように配分を決められていたのでしょうか。それは、江戸幕府初代将軍・徳川家康との親密性が深く関係していました。

藩の種類はたったの3種類!?

江戸幕府260年間の歴史の中で、藩は約300存在していたと言われています。

しかし、藩は徳川家康との関係性において、たったの3つに分類されるのみなのです。

親藩(しんぱん)

「親藩」とは、徳川家康の血縁者による藩のこと。「御三家」(ごさんけ)、「御家門」(ごかもん)、「御連技」(ごれんし)で構成されています。

御三家とは、徳川将軍家に次ぐ最高位の家柄です。「尾張徳川家」(尾張藩)、「紀州徳川家」(紀州藩)、「水戸徳川家」(水戸藩)のこと。

尾張徳川家は、徳川家康の九男「徳川義直」を藩祖として62万石、紀州徳川家は、徳川家康の十男「徳川頼宣」を藩祖として56万石、水戸徳川家は、徳川家康の十一男「徳川頼房」を藩祖として35万石を領していました。

御家門とは、徳川家康のもとの姓である「松平」を名乗ることを許された一族のこと。御三家に次ぐ格式で、越前松平家、会津松平家、越智松平家、奥平松平家、久松松平家がありました。

御連技とは、御三家から分家して立藩した大名家のこと。尾張徳川家の御連枝には、高須松平家、紀州徳川家には西条松平家、水戸徳川家には高松松平家などがあります。

譜代(ふだい)

「譜代」とは、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」以前から徳川家に仕えた重臣のことです。

江戸幕府においても要職を務め、親藩に次いで厚遇されました。代表的な譜代大名としては、「井伊直政」(彦根藩:12万石)や「本多忠勝」(桑名藩:10万石)、「榊原康政」(館林藩:10万石)などがいます。

外様(とざま)

「外様」とは、関ヶ原の戦い以降、徳川家康に巨従した大名のことです。

代表的な外様大名として、「福島正則」(広島藩:49万8,000石)、「加藤清正」(熊本藩:52万石)などがいました。

実戦はなくてもサバイバル!?

300もあったと言われる藩ですが、これは常時の数ではありません。取り潰しになることもあり、平均では260藩前後が存在したのではないかと言われています。

どうして取り潰しになったのかと言うと、実戦はなくても、政治的な戦いが多々あったから。その結果、当主は自刃や斬首、切腹となり、減封(所領を削減されること)や改易(士籍を残して所領や城を没収すること)が頻繁に行われていたのです。

藩は3種類ありましたが、いちばん大変だったのは外様でしょう。外様は、織豊時代、徳川家康と肩を並べた大名達ですが、徳川家康は豊臣恩顧の大名が力を持つことを非常に警戒していました。そこで、徳川家康は知恵を絞り、賢く罠を仕掛け、藩ごと淘汰していったのです。

まずは、1615年(元和元年)「一国一城令」を発布。徳川家康は関ヶ原の戦いで活躍した大名にはたくさんの所領を与えていましたが、この制度で、居城以外の城の破却を命じ、大名の誇りと財力を削減します。

さらに同年「武家諸法度」(元和令)を制定。自分以外の大名には財力を蓄えさせないように、「参勤交代」や「婚姻の許可制」を明文化。また「居城修復の届出制」などの罰則を設けたのです。

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福島正則

この徳川家康の罠にかかってしまったのは、外様・福島正則です。福島正則は、豊臣秀吉子飼いの武将で、49万8,000石を領していました。

しかし、お城の雨漏りを勝手に直したことが武家諸法度違反だとして、越後魚沼藩2万5,000石まで大幅に減封されてしまったのです。

また譜代であっても、「大久保忠隣」(小田原藩:6万5,000石)は、勝手に養女や嫡男を縁組したのは武家諸法度違反だとして改易。たったの5,000石となっています。

なお、外様・加藤清正も福島正則と同じく豊臣秀吉子飼いの武将で、52万石を領していましたが、1611年(慶長16年)に、徳川家康と豊臣秀頼のこじれた仲を取り持つ会見を成立させた帰り道、船の中で病死。一説には、徳川家康が暗殺したとも言われています。

江戸時代には実際の戦は少なくても、生死を分ける政治的な戦いが繰り広げられていました。このようにして徳川家康は、泰平の世を築き上げたのです。

領民は主君を見る目が必要

藩について詳しくご紹介しましたが、実はこの言葉は、江戸時代にはありませんでした。

藩という名称は、明治政府が1868年(明治元年)旧幕府領に府や県を置く際に、はじめて付けた名称です。それまでは「大名領」と呼ばれ、「毛利大膳大夫領分」などのように、大名家の名前と官位に領分を付けて呼んでいました。

そして、1869年(明治2年)に「版籍奉還」、1871年(明治4年)に「廃藩置県」が行われ、藩は正式に廃止されたのです。

藩が現在の都道府県と大きく違うのは、大名が領地と領民(領地内の士農工商)を支配していたところです。

例えば、現在ならば、東京都知事が誰に変わっても、東京都民に変わりは生じません。しかし、江戸時代は自分の主君である大名が転封(大名の領地が他の場所に変わること)になると、領民(百姓身分以外)は共に引越しをしなければならないし、大名が処罰されると共に処罰されることもありました。お取り潰しとなった場合には、大名に準じて自刃する場合や自分で縁者を頼って住むところを探さなければならないなど、困窮を余儀なくされたのです。その代わり、江戸時代中期からは「脱藩」(藩をやめて浪人になること)も認められていました。

藩があった江戸時代、現在の私達とは比べ物にならないくらい、領民は主君を見る目が必要だったと言えるのです。

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