加藤清正_サム

「加藤清正」は、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で頭角を現した武将です。「朝鮮出兵」では虎退治をしたという逸話を持つ武将として知られ、「築城の名手」とも言われています。パワースポットとしても知られている明治神宮の「清正井」(きよまさのいど)を築造したとされていますが、本当に加藤清正自らが掘った井戸なのでしょうか。加藤清正がどういう人物か解説したのちに、明治神宮の清正井について考えていきます。

築城の名手とされた戦国武将・加藤清正

加藤清正」は、1562年(永禄5年)、尾張国(現在の愛知県西部)で生まれました。豊臣秀吉の母と加藤清正の母は従姉妹同士であった縁から、12歳頃より豊臣秀吉に仕えていた豊臣家子飼いの武将です。

加藤清正は、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で勇猛果敢に戦い「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた武将のひとりでした。また、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵では、虎を槍で仕留めたという虎退治の逸話が知られていますが、実際のところは、虎退治には鉄砲が用いられたと考えられています。

加藤清正は、このような逸話が生まれるほどの猛将でした。それと同時に、「藤堂高虎」や「黒田官兵衛」と並ぶ三大築城の名手でもあります。

加藤清正は、豊臣秀吉の命により、朝鮮出兵の拠点として肥前国(現在の佐賀県長崎県)の名護屋城(なごやじょう)の築城に普請奉行としてかかわりました。その後、朝鮮に赴き、攻城戦や倭城と呼ばれた日本式の城を築城して籠城戦を経験したことも、のちの築城技術に影響を及ぼしています。

そして、1588年(天正16年)に肥後国(現在の熊本県)北部の大名となったあと、1601年(慶長6年)から、「築城の名手」と呼ばれるゆえんとなる「熊本城」の築城を開始しました。

熊本城は、北、東、南の三方に反りのある高石垣が設けられているのが特徴。石垣は下の方の勾配は緩く、上に行くにつれて急勾配になっていて、敵の侵入を防ぐ効果があることから「武者返し」と呼ばれています。西側からの侵入に対しては、幅10m以上もある空堀が設けられました。

さらに、本丸の入口から御殿までの登城路には高石垣や櫓(やぐら)を数多く設け、敵を上から狙い打ちすることができたのです。

また、加藤清正は土木・治水事業にも注力した功績から、「土木の神様」とも呼ばれています。

熊本城下の白川が氾濫を繰り返していたため、蛇行している部分をカットして川を付け替える治水工事を行い、白川から農業用水を引くための堰や井手(水の流れをせき止めて溜めておく所)、用水路の整備にも尽力しました。その中には、鼻ぐり井手などの現存する物もあります。

そのため加藤清正は、熊本において今でも「清正公さん」(せいしょうこうさん)と呼ばれて親しまれ続けているのです。

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パワースポットとしても人気の「清正井」とは?

156_ 「明治神宮清正井」と「加藤清正」
明治神宮 清正井

そんな加藤清正が掘ったと言われているのが「清正井」です。パワースポットとしても人気を集めている清正井があるのは、「明治天皇」と「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)を祀る明治神宮の御苑。かつて、江戸時代に加藤家の下屋敷があった場所です。

加藤清正の息子である「加藤忠広」(かとうただひろ)が居住していたとされていますが、改易(かいえき:大名や武士の身分を剥奪し、領地を没収する処罰)の処分を受けたあとは、井伊家の別邸となりました。

清正井は湧き水の井戸で、1年間を通じて水温は15℃程度、毎分60Lの水量があります。垂直に掘る竪井戸が一般的ですが、清正井は斜面を水平方向に掘る横井戸です。

横井戸であることは、明治神宮の造営工事が行われた大正時代にも分かっていましたが、水源は不明でした。

その後、1938年(昭和13年)に修復工事を行う際、水源調査を実施。その結果、水源は本殿倉庫あたりの浅い地下水であることが判明したのです。

清正井は本当に加藤清正が掘った井戸?

さて、清正井は実際に加藤清正によって掘られた井戸なのでしょうか。実は、加藤清正が掘った井戸かどうかは不明なのです。

では、なぜ加藤清正が掘った井戸と言い伝えられているのか。理由のひとつは、加藤清正が築城の名手、土木の神様と呼ばれていたことに関係しています。

清正井は、水源の調査が行われる以前までは、井戸に水を噴出させる特殊な仕掛けが設けられていると考えられていました。このことから、「こんな井戸を造れるのは土木の神様である加藤清正しかいない」という伝説が生まれたと推測されるのです。

また、加藤清正は大男だったと言われていることも、井戸を自らの手で掘ってしまいそうなイメージを持たせる要因となりました。

伝説によると、加藤清正が周辺にも9箇所の隠し井戸を設けたと伝えられています。ところが、戦前に熊本の加藤清正の研究家が上京し実地調査を行った際、これらの隠し井戸は見付かりませんでした。

明治神宮の御苑には他にも加藤清正に関する伝説がある

清正井以外の加藤清正に関連した言い伝えは、他にも明治神宮の御苑に残されています。

そのひとつが「清正将来の虎斑竹」(きよまさしょうらいのとらふだけ)と呼ばれる物で、加藤清正が朝鮮出兵で、虎を槍で突いたときに生じた血しぶきがまだら模様に付着したとされている竹です。

ただし実際のところは、清正将来の虎斑竹は虎模様のような斑紋がある虎斑竹ではなく、雲紋竹(うんもんちく)という種類の竹になります。

また「清正の腰懸石」は、加藤清正が下屋敷の庭園を散歩するときに腰を掛けたとされる石です。「清正の手弄石」(てまさぐりいし)と呼ばれる大きな石もあったとされていますが、一説には清正の腰懸石と同じ石ではないかと言われています。

親しまれているからこそ数々の伝説が生まれる

明治神宮の御苑には、清正井や清正将来の虎斑竹、腰掛け石など、加藤清正にまつわる物が語り継がれて残されています。

実際に加藤清正が清正井を掘ったかどうかは明らかではありませんが、加藤家の下屋敷のあった場所に位置しているなど、加藤家との関連性があることは事実。このことから、清正井は加藤清正が掘ったのではないかと後世の人々は推測しました。

これだけ伝説があるのは、加藤清正が愛されている証。熊本では、武将としての功績だけではなく、治政面での評価からも、尊敬と親愛の情を持たれています。

真偽のほどは定かではなくても、今後も清正井が大切に守られていくことは間違いありません。

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