直江兼続_サム

戦国武将の兜には、立物(たてもの)と呼ばれる装飾物が施され、信仰や意志を示していました。有名な兜を挙げてみると、真田幸村は「鹿の角」と「六文銭」、伊達政宗は道教を示す「三日月」、武田信玄は「日輪」と「三日月」など、独自の立物があしらわれた兜を愛用しています。そのなかでも異彩を放っていたのは、「直江兼続」(なおえかねつぐ)の兜。立物にあしらわれていたのは「愛」の文字でした。直江兼続の生涯について紹介した上で、愛という文字を兜の立物にあしらった理由について見ていきます。

上杉景勝を生涯支え続けた直江兼続

直江兼続」は、1560年(永禄3年)、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)の上田の庄で生まれました。

父の「樋口兼豊」(ひぐちかねとよ)は、坂戸城主で「上杉景勝」の実の父親である長尾政景(ながおまさかげ)の家臣。母は「泉弥七郎重蔵」(いずみやしちろうくらしげ)の娘とされています。直江兼続の幼名は「与六」で、直江家に生まれたのではなく、もとは樋口家の長男だったのです。

直江兼続は聡明であったことから、6歳で「上杉謙信」の養子となる上杉景勝に小姓として仕え始めました。

1578年(天正6年)に上杉謙信が亡くなると、上杉景勝ともうひとりの養子である上杉景虎との間で、跡目を巡って御館の乱と呼ばれる戦いが起こります。結果は、当時19歳であった直江兼続の手腕もあり上杉景勝が勝利し、家督を継ぐことになりました。

このとき、論功行賞を巡る争いに巻き込まれ、上杉景勝の側近の直江信綱(なおえのぶつな)が命を落としてしまいます。直江家は名家であったこともあり、直江兼続は未亡人であるお船の方の婿養子となって、直江家を継ぐことになりました。

その後、豊臣秀吉の命による「小田原征伐」や佐渡征伐などで、直江兼続は軍師として活躍します。その功績もあり、上杉景勝が越後国の92万石から会津国の120万石に加増の移封(いほう:大名が他の領地に国替えすること)となったときには、直江兼続に直接30万石が与えられました。

そうして直江兼続は、豊臣秀吉とは良好な関係を築いていましたが、豊臣秀吉の死後は暗雲が立ち込めます。

上杉景勝は徳川家康から「上杉家に謀反の疑いあり、上洛して釈明せよ」と求められました。直江兼続は毅然とした態度で対応し、「徳川家康の方が謀反を考えているのではないか」と、直江状と呼ばれる書状を送ります。それに怒った徳川家康は会津征伐を行う動きを見せますが、直江兼続にとって幸いにも石田三成が徳川家康に対して兵を挙げたため、会津征伐は実行されませんでした。

しかしその後、上杉景勝は「関ヶ原の戦い」で石田三成率いる西軍について敗北。直江兼続は上杉家の存続を図るため、徳川家康の側近である「本田正信」(ほんだまさのぶ)と交渉し、1601年(慶長6年)に上杉景勝とともに徳川家康に謝罪しました。その結果、会津国の120万石から、出羽国(現在の山形県秋田県米沢藩30万石へ減った上での移封となりました。

そして、上杉景勝や他の家臣とともに米沢に移り住み、治水事業や藩の収入を増加させるため紅茶や漆といった商品作物の栽培で功績を残し、その後の10年間で実質的な石高を50万石まで回復させたとされているのです。

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有力視されている2つの軍神説

上杉家の家臣として人生をささげた直江兼続の兜にある「愛」の文字。愛と聞くと、恋愛感情の「LOVE」を思い浮かべるかもしれませんが、直江兼続の兜「愛」の意味は違っていたとされています。

兜の愛に込められた意味として有力視されているのは、「愛染明王」(あいぜんみょうおう)あるいは「愛宕権現」(あたごごんげん)のいずれかの、武運を守る軍神の一文字を使ったとする軍神説です。

立物の愛の下には「雲」があります。これは単なる装飾ではなく、雲の上に仏様の名前の一文字を乗せることで、仏様の名前を省略する意味があるとされているのです。

愛染明王とは、愛欲や情欲をつかさどり、悟りの心に導く力を持った明王。明王は大日如来の命により、仏教を信仰しない者を怒りの形相で仏の道に導く仏様です。明王は手に武器を持っているのも特徴で、愛染明王は6本ある腕に弓や矢を持っていて、目は3つあり、怒りに満ちた形相をしています。

一方、愛宕権現は、聖域である山に入って修行をする山岳信仰の修験道とかかわりのある火伏の神です。神仏習合(しんぶつしゅうごう:日本古来の神道と外国からもたらされた仏教を一体として信仰する考え)によって愛宕権現の化身とされた「勝軍地蔵」(しょうぐんじぞう)は、武士にあがめられていました。

上杉家の古文書を編纂した「歴代古案」には、上杉謙信が戦勝祈願に愛宕神社を訪れていたことが記録に残されています。そのため、上杉家では愛宕信仰があったことが推察されることから、軍神説のなかでも愛宕権現の愛とする説が有力とされてきました。

これらのことからも、戦国時代を生き抜くには、愛という文字を兜に用いて信仰を現わしたのは、合理性がある説だと言えます。

米沢の地で語り継がれて来た愛民説

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上杉謙信

立物の愛の意味を巡っては、もうひとつ説があります。関ヶ原の戦いで上杉家が敗北して移封された地、米沢で語り継がれて来た「愛民説」です。

愛民説とは、直江兼続の兜「愛」の文字は「愛民」(民を慈しんで愛すること)あるいは「仁愛」(情け深い心で人を慈しむこと)を示しているとする説。

「北越軍談謙信公語類」によると、上杉謙信の言葉に「大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、 慈愛をもって衆人を哀れみ」という言葉があります。これは、「大将である者は、儒教による仁・義・礼・智・信の五常の徳を規範として、慈愛の精神で領民を思いやる」という意味。直江兼続は上杉景勝のそばに仕えて以来、「仁・義・礼・智・信」の五常の徳を軸に上杉家への忠誠を貫きました。

さらに、「本能寺の変」で織田信長明智光秀によって討たれたとき、直江兼続は「五常の徳を大切にする人徳がなかったことが原因である」と考えたのではとする説もあります。

直江兼続が五常の徳を持って米沢の地の治政を行ったからこそ、愛民説が語り継がれていることが推察されるのです。

「愛」は上杉家への忠誠心の表れ

直江兼続の兜の立物にあしらわれた愛の意味には、軍神説と愛民説がありますが、いずれにしても上杉家への忠誠心がうかがえます。

軍神説であれば、そもそも戦は上杉家が繁栄するための戦いであり、軍神が愛宕権現であるのであれば、上杉家との結び付きがより強く感じられます。また、愛民説であったなら、愛民や仁愛は上杉謙信の言葉に通じる考え方です。

現代においては愛はLOVEを想像するため、兜に不似合いと感じますが、戦国時代なら違和感のないデザインであった可能性も否めません。わずか6歳で上杉景勝に仕えて以降、上杉家のために尽力した直江兼続は、兜においても上杉家に忠義を尽くしていたと推測されるのです。

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