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「徳川家康」は三河国(現在の愛知県東部)の小領主・松平広忠の子として1542年(天文11年)岡崎城に生まれました。幼い頃は人質として尾張や駿府に送られる日々を過ごし、成長したのちも波瀾万丈な人生を送りましたが、戦国時代を最終的に制したのは、徳川家康だったのです。江戸幕府を開き、2度にわたる「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼして天下統一を達成すると、徳川家の時代に。そんな徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎだという説が広く知られていますが、果たしてそれは本当なのか、徳川家康の死因の謎を読み解きます。

苦難に耐えてきた徳川家康の人生

徳川家康」の人生は幼少期を人質として過ごし、成長して一城の主となったあとも、同盟を結んでいたはずの「織田信長」によって妻と最愛の長男「松平信康」を殺害、切腹させられるなど、苦難の連続でした。

織田信長の没後、混乱する甲斐・信濃を獲得し、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)を擁して「豊臣秀吉」と「小牧・長久手の戦い」で対決。

しかし、決定的な勝利を得ることはできず、和睦して豊臣秀吉に臣従します。北条氏の滅亡後には関東に転封され、本拠を江戸に移すこととなりました。

豊臣秀吉の死後、政権運営を巡り徳川家康は他の大老や五奉行の「石田三成」らと対立しますが、それでも持ち前の政治力で豊臣恩顧の諸軍を懐柔、そして右大臣に任じられ江戸幕府を開きました。

この頃から苦難の連続であった徳川家康の人生も、ようやく落ち着くこととなったのです。

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「天ぷらの食べ過ぎ」が死因というのは本当か

徳川家康の最期として広く知られているのは、「献上された鯛の天ぷらを食べたため食中毒で死亡した」という内容です。しかし、これは可能性が低いと言われています。

1616年(元和2年)、太政大臣に任ぜられた徳川家康を祝い、正月に京都の商人「茶屋四郎次郎」が、京で流行していた鯛の天ぷらを献上。

天ぷらは、今でこそ家庭でも作られる一般的な食事となっていますが、江戸時代初期には油が大変貴重であったこともあり、高級品でした。だからこそ、将軍へ献上品として捧げられることとなったのです。

徳川家康は大変喜び、鯛の天ぷらも多く食しました。しかし、翌朝未明に激しい腹痛を起こし、床に伏せることになります。その後病状は一進一退し、4月に駿府城で亡くなりました。

この症状から、胃や食道にもともと腫瘍があったところに消化の悪い物を食べて通過障害や腸閉塞(イレウス)を引き起こしたのではないかと言われるようになったのです。それにしても、3ヵ月もの間一進一退を繰り返すというのは経過が長すぎます。

徳川家康を苦しめたのは「胃がん」

徳川家康は中高年期には非常に肥満で、下帯も締められなかったと言います。ところが、晩年は徐々に食欲不振が進行してげっそりと痩せていました。

また、鯛の天ぷらを食べてすぐに死亡したわけではなく、病状は軽快と増悪を繰り返したのちに死亡したことから、胆道系あるいは膵臓に悪性腫瘍があったと推察できます。

19世紀前半に編纂された「徳川実紀」によれば、徳川家康の病状は吐血と黒い便、手で触っても分かるほど大きな腹部のしこりが確認されていたとのこと。吐血や黒い便は、「胃がん」などの消化器に起こるがんによって消化管の中で出血した際に起こる症状。また胃のあたりに硬いしこりができるのも、進行した胃がんに見られる症状です。

さらに、がんは家系的に発生することもありますが、息子の「徳川秀忠」も胃がんで死亡したという記録が残っています。これらを総合して考えた結果、現在では徳川家康の死因は胃がんであったという説が最有力とされているのです。

徳川家康は「健康オタク」だった

そもそも、徳川家康が没したのは75歳のとき。これは徳川15代の将軍の中でも、徳川慶喜の77歳に次ぐ長命です。日々情勢の変わる戦国時代で、ライバルよりも健康で長生きするということは、勝利への道でもありました。

織田信長は、謀反の結果とは言え志半ばで死亡したため、織田家の勢力を保つことはできなくなりました。若き日に兵刃を交えた「武田信玄」や「上杉謙信」、「北条氏康」に対して、徳川家康は戦場で勝利を得ることはできませんでしたが、彼らは皆40~50代で病死しています。豊臣秀吉は63歳で老衰死。最後のライバルでもある「前田利家」も、64歳で病死します。

その結果、経験と人望のある徳川家康に敵う武将はひとりもいなくなり、天下を統一することに繋がりました。それを可能としたのが、他でもない長命だったのです。

徳川家康は多くの武将が散っていく様を見て、最後に勝利するためには長命でなければならないと感じていました。その様子は徳川実紀にも詳しく記されています。

駿府の人質時代から剣術や槍、弓の修練は怠らず、乗馬を日課にして身体を鍛えていました。水泳も得意で、流れの速い安倍川で泳いでいたと記録されています。鷹狩りも大好きで、晩年はもっぱら鷹狩りにふけっていました。

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鷹狩り

食べ物には必ず火を通し、生水は飲まず、タバコも吸わず、刺身などは旬の物にしか手を出さず、梅毒や淋病を避けるために遊女は近付けない、側室は容姿の美醜よりも健康でたくさんの子どもを産めるかどうかで選ぶなど、健康を第一に考えていたエピソードは多々あります。

過剰なほどの健康法は、徳川家康の豊富な医療知識に基づく行為でしたが、それが災いし自らの重病を軽い病と自己診断してしまいました

医者の勧めに従わず、以前から使用していた薬を用いており、それがかえって死因となった胃がんを進行させてしまったのではないかと推測できる記録が残っています。

健康に気を遣っていたはずの人間が、晩年に重大な病を見落としてしまったというのは皮肉な話です。

徳川家康の天下は長命が作り出した

波瀾万丈な人生を送った徳川家康ですが、ライバルの武将よりも長生きしたことにより、戦国の世の最終的な勝者となることができました。

将軍職を息子の徳川秀忠に譲った段階で、「将軍職は徳川家が世襲する」という礎を作ることにも成功しています。結果として、徳川家の時代は15代265年の長きに亘り続きました。

死因の最有力候補は胃がんではありますが、当時の75歳という年齢を考えれば、成すべきことを成し遂げて天寿を全うしたと言っても過言ではありません。そんな戦のない世の中を実現した功労者も、病には勝てませんでした。

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