井伊直政_サム

徳川四天王の筆頭とされ、「井伊の赤備え」(いいのあかぞなえ)と称された部隊を率いていたことでも有名な武将「井伊直政」。数々の合戦で手柄を挙げただけでなく、政治能力も非常に高い武将であったと言われています。しかしながら、そんな華々しい活躍とは裏腹に、その幼少期は波乱に満ちていました。不遇な幼少時代を乗り越え、徳川家きっての重臣となるまでには、様々な出来事があったのです。井伊直政の人生を追いながら、主君・徳川家康との関係性や、その人となりを探ります。

波乱に満ちた幼少時代

井伊直政の生まれた井伊家は、もともと駿河の今川家に仕えていましたが、その主従関係は決して良好ではありませんでした。

実際に、井伊直政の祖父である「井伊直満」(いいなおみつ)は謀反の疑いで、また父の「井伊直親」(いいなおちか)も徳川家康に接近したという理由で、いずれも今川家に殺害されています。

父である井伊直親が殺害された当時、井伊直政はわずか1歳でした。まだ赤ん坊のうちから、井伊家の家督を継ぐ唯一の男子として、命を狙われることとなります。

今川家には、なんとか助命を認められた井伊直政でしたが、家老である「小野好道」(おのよしみち)にも狙われたため、1568年(永禄11年)に三河の鳳来寺(ほうらいじ)へ身を潜め、その後も母の再婚先である松下家に身を寄せるなど、各地を転々としています。

そんな井伊直政の転機となったのが、1575年(天正3年)の徳川家康との出会いです。

井伊家の女当主「井伊直虎」(いいなおとら)が仕組んだ出来事であり、これをきっかけに、井伊直政は小姓として徳川家康に仕えていくこととなりました。ここから、徳川家の家臣として、井伊直政の華々しい活躍が始まります。

井伊直政のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

政治も戦も有能すぎる井伊直政

井伊直政は、徳川家康に仕えていた小姓のなかでも、その飛びぬけた実力により数々の武功を挙げていきました。そして1582年(天正10年)、満を持して元服します。名前を「万千代」(まんちよ)から「直政」に改め、ここでようやく歴史上に井伊直政という武将が誕生しました。

井伊直政の功績については数多く伝えられていますが、やはり最も有名なのが「井伊の赤備え」を率いたことです。

この軍勢は、もともと武田家の遺臣であり、徳川家康が井伊直政に受け継がせました。彼らは武田家時代からの赤い軍装を引き継いだことから、井伊の赤備えと呼ばれるようになります。井伊直政は、彼らの大将として数々の戦場で自ら先陣をきり、「井伊の赤鬼」という異名で恐れられました。

さらに、井伊直政が他の武将よりも抜きんでていたのが、その政治能力です。1582年(天正10年)には、北条氏との講和締結という重要任務を完遂。武田家の遺臣が徳川家についたのも、井伊直政の働きが大きかったと言われています。「関ヶ原の戦い」でも、毛利家を味方に付ける工作を行い、勝利に大きく貢献しました。

井伊直政の有能さには徳川家康もぞっこん!

徳川家康
徳川家康

政治面でも軍事面でも抜きんでていた井伊直政は、当然のように主君・徳川家康に重用されました。徳川家康の家臣の中では、一番の石高を誇っていたことからもそれを窺い知ることができます。

徳川家康の重用ぶりが最も表れているエピソードに、先輩武将である「榊原康政」(さかきばらやすまさ)が激怒したという事件があります。

武田の遺臣がすべて井伊直政に受け継がれたことを榊原康政が不服とし、「井伊直政と刺し違える」とまで言ったそうです。結局「酒井忠次」(さかいただつぐ)に諭されて、榊原康政は引き下がり、事なきを得ました。 

井伊直政は、徳川家康に大抜擢されたことで、己の実力を周囲に示して理解してもらう必要があると考え、周囲の反感を収めるために率先して数々の戦場で先陣を切ったと言われています。

また、小姓時代に徳川家康と特別な関係にあったといううわさも残っています。元服の年齢が当時としては遅めの22歳であったことは、徳川家康が側に長くおいておきたかったからではないかとも言われるほどです。

実際のところ、この真偽ははっきりとしていませんが、井伊直政がそれだけ徳川家康に重用されていた証拠と考えることができます。

顔も性格もイケメンだった!?

井伊直政については、いわゆる「イケメン」であったというエピソードも残されています。

豊臣秀吉の母「大政所」(おおまんどころ)にまつわる話で、徳川家康をどうしても自分の家臣としたかった豊臣秀吉は、実母である大政所を徳川家康のもとに送り込みました。その際に世話を命じられたのが、井伊直政でした。

その美男ぶりと細やかな配慮に、大政所と侍女達は、すっかりほれ込んでしまったと言われています。実際に、豊臣秀吉のもとに帰る際も、大政所は護衛に井伊直政を希望したと言われたほどです。

また、逸話によって分かるのは、井伊直政の外見のイケメンぶりだけではありません。「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)によれば、徳川家康と井伊直政が共に敵から逃亡している際、神社に供えられた赤飯を見付けたことがありました。

徳川家康と他の多くの家臣がそれを口にするなか、井伊直政だけがそれを決して口にしなかったと言われています。「食べ物を口にすれば、切られたあと、お供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の恥だ」という理由でした。そのとき、主君を守り抜き、討ち死にする覚悟をすでに固めていたのです。

実際に井伊直政が討ち死にすることはありませんでしたが、その言動からは忠誠心や、まっすぐで誇り高い性格を窺い知ることができます。

徳川四天王・井伊直政はまさにイケメンを代表する武将

井伊直政はわずか1歳で父を亡くし、井伊家を継ぐ唯一の男子として命を狙われることになりました。

幼い頃から各地を転々としましたが、井伊直虎の配慮により徳川家康との邂逅(かいこう)を果たします。その後、小姓としてとりたてられたことで、武将としての人生が大きく開いていったのです。

また、戦場での活躍はめざましく、武田の遺臣を率いて先陣を切るさまは井伊の赤鬼と恐れられました。

数多くの武功を残した井伊直政ですが、その才覚が発揮されたのは戦場だけではありません。北条氏との講和締結や関ヶ原の戦いにおける毛利家への働きかけなど、政治面でもその手腕をいかんなく発揮しました。

徳川家康にも重用され、その抜擢ぶりは周囲の武将から反感を買うほど。また、数多く残された逸話からは、その美男子ぶりと誇り高く忠誠心にあふれた内面を窺うことができます。まさにイケメンと呼ぶにふさわしい、徳川家を代表する有能な武将でした。

【関連サイト】
井伊直政 井伊直虎 徳川家康 榊原康政 酒井忠次 豊臣秀吉