毛利元就_サム

「毛利元就」と言えば、有名な「三本の矢」の逸話があります。死の間際、3人の息子を呼び寄せた毛利元就が「一本の矢は折れやすいが三本束ねれば折れなくなる。同様に、ひとりでは弱くとも団結すれば強くなるのだ」と説いて兄弟が力を合わせるよう諭したという話です。これは、協力し合うことの大切さを説いた教訓とされ、毛利元就の名前と共に思い出す人も少なくありません。しかし結論から言えば、これは真実ではなく後世に創作された逸話なのです。由来は諸説ありますが、そのひとつが毛利家の家紋「長門三つ星」です。それはどのような言い伝えなのか、毛利元就の人生を辿りながら解き明かします。

一代で強大な戦国大名に成長した謀略の武将

毛利元就」は、安芸国(現在の広島県西部)の国人領主の次男に産まれ、兄とその息子が若くしてこの世を去ったために家督を継ぐこととなりました。当時は「尼子経久」(あまごつねひさ)と「大内義興」(おおうちよしおき)の二大勢力に挟まれ、決して強大な勢力を誇っていたわけではありません。

家督を相続してしばらくしたのち、それまで友好関係にあった尼子方から大内方に鞍替えを試みます。当然尼子氏に攻められましたが、大内方から来た「陶晴賢」(すえはるかた)の援軍と協力して、1540~1541年(天文9~10年)「吉田郡山城の戦い」で尼子氏を打ち破りました。

こうして毛利家は大内氏の傘下に入ることとなりますが、翌年の「月山富田城の戦い」で、大内氏は尼子氏に敗北。さらに陶晴賢の謀反で大内氏の領国内は揺らぎます。毛利元就は陶晴賢の側につき、この混乱に乗じて勢力を拡大しました。

しかし飛躍的に勢いを伸ばす毛利元就を陶晴賢は良く思わず、両者の関係性は徐々に悪化し、最終的には厳島で相まみえることになります。これが「厳島の戦い」で、勝者は毛利元就でした。

毛利元就が勝利した背景には、村上水軍を味方に付けたり、陶晴賢側の猛将に謀反の噂を流したりという事前の謀略があったと言われています。

毛利元就のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
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毛利家を強くするための「三本の矢」

西日本最大の勢力を誇ることとなった毛利元就ですが、家臣の統制には苦労しました。少しでも不安要素がある家臣は誅殺するなどしたものの、有力な家臣をひとつにまとめることは簡単なことではありません。

そこで毛利元就は、一族の結び付きを強めることで勢力の安定を図ります。毛利元就は自らの息子を他家乗っ取りのために養子に出すことにしました。

次男(吉川元春)を安芸と石見に勢力を持つ吉川家へ、三男(小早川隆景)は強力な水軍を持つ小早川家へ。自らの息子にそれぞれの家を継がせ、毛利家を継いだ長男の「毛利隆元」(もうりたかもと)と共に協力し合い守り抜くようにと教訓状を送っています。

148_毛利元就 直筆三幅(子息 三人宛)
毛利元就 直筆三幅(子息 三人宛)

この教訓状の中に書かれていたのは三本の矢の話ではなく、毛利元就の正室、つまり3人の息子の母である女性の話でした。

毛利元就と正室「妙玖」(みょうきゅう)との夫婦仲は極めて良く、妙玖が健康なうちは側室を置かなかったほどでした。しかし、妙玖は47歳で他界。毛利元就はそれを深く悲しんだと伝えられています。

毛利元就は郡山城の中に「妙玖庵」を設け、3人の息子達に頻繁にお参りをさせました。そうして妙玖への弔いや届け物をすることが息子達の心をひとつに結ぶ証になる、と教訓状の中で説いています。

こうして大切な母を想う心が家族をひとつにし、それぞれ別の家を継いだ兄弟も疎遠にならずに済んだのです。これが転じて「三本の矢」の逸話になったと言われています。

しかし三本の矢の由来は、実は家紋にあるという説もあるのです。

長門三つ星が三本の矢の由来!?

148_長門三つ星
長門三つ星

毛利元就は「長門三つ星」と呼ばれる家紋を最も多く用いました。

これは、戦勝を呼び込む「三つ星」と「勝つ」に通ずる「一」を配した紋様。古来中国では、オリオン座の中央に並ぶ3つの星を表している三つ星は将軍星として武家が信仰する対象です。

この家紋が三本の矢の由来と言われている最大の理由は見た目。三つ星は3人の息子達、一は矢を表していると考えられ、三本の矢のもとになったと推測されています。

長く後世に語り継がれていく中で様々な脚色も加えられてきました。毛利元就の人物像もそのひとつ。後ろ盾もない立場から一代で強大な勢力へと成長させた上に、しっかりとした地盤固めにも成功した人物像は非常に稀です。

このようなことが後世の人々の想像力を一層かき立て、家紋である長門三つ星が三本の矢の由来となったと言い伝えられています。

もうひとつの毛利氏の家紋「長門沢瀉」

そして、毛利氏にはもうひとつ「長門沢瀉」(ながとおもだか)という家紋もあります。

ある合戦に臨んだ際、とんぼが沢瀉(田や池に生える多年草)に止まるのを見て勝ちを確信したと言われています。

沢瀉は葉の形が鏃(やじり)に似ていることから「勝ち草」と呼ばれ、とんぼもまた縁起の良い物とされていました。

実際にその戦いを勝利で終えることができ、それを記念して沢瀉紋を家紋にしたと伝えられています。

勝利を繰り返し戦国の世を駆け上がった毛利元就

毛利元就はたった一代で毛利家の基盤を作り上げました。大内氏、尼子氏といった大勢力に勝利するほどの知力と政治力を持ち、家臣団を安定させ維持する土台を築き上げたことは簡単にできることではありません。

そんな毛利元就が翻す御旗(みはた)に掲げられていたのが勝利を呼ぶ家紋・長門三つ星。これは武門にとって縁起の良い紋とされています。そして長門沢瀉もまた勝利に導く家紋です。

これらの家紋を戦国の世で華々しい成果を上げた毛利家が掲げたからこそ、三本の矢という逸話の誕生に繋がっていったのです。

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