武田信玄_thumb

「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、 動かざること山の如し」の言葉で知られる「武田信玄」は、「上杉謙信」とのライバル関係でも有名です。戦国最強と謳われた「武田騎馬軍団」を率いて勝ち星を重ねる様は、「甲斐の虎」として人々に恐れられたと言われています。「戦の天才」として語り継がれる武田信玄ですが、実際の人となりはどうだったのでしょうか?武田信玄が残した逸話のなかから、その人物像に迫ります。

武田信玄は勉強が大好きだった!

武田信玄」は、1521年(永正18年/大永元年)11月3日、甲斐の国(現在の山梨県)で父「武田信虎」(たけだのぶとら)、母「大井の方」の長男として生まれ、幼名は「勝千代」または「太郎」と名付けられます。

優秀な戦国武将であっただけに、武田信玄は腕っぷしの強さだけではなく、幼い頃から学問を通じて戦略を立てる智恵を学んでいました。幼少期の武田信玄は、一説には教育熱心だった母親の影響もあり、積極的に学問を学ぶ聡明な神童であったという逸話が残っています。

武田信玄は、8歳から長禅寺に住み込んで手習いや学問を始めました。その実力は「一字を学びて十字を知る」と言われ、師僧から手渡された「庭訓往来」(ていきんおうらい)という教科書を2~3日で読み終えるほどでした。しかも、その内容が武将には不必要だったからと、次は武将に必要な軍術に関する書を求めたのです。

そして、手渡されたのが「孫子」(そんし)・「呉子」(ごし)・「尉繚子」(うつりょうし)・「三略」(さんりゃく)・「六韜」(りくとう)・「司馬法」(しばほう)・「李衛公問対」(りえいこうもんたい)という中国の兵法書でした。

168_書物
軍術に関する書物

戦争などにおける兵の用い方を説いた書物で戦略に必要なことを学び、のちに孫子の「戦わずして勝つ」という教え通り、無益な戦闘を避けるようになったと言われています。

他にも、21歳の頃の武田信玄は、仮病を使ってまで和歌に没頭したという逸話があることから、意外なことに文学青年としての一面も持っていたのです。

武田信玄のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

賢さゆえに嫌われた武田信玄の悲しいクーデター

武田信玄はその賢さゆえ、実は父に嫌われていたという話が残っています。武闘派の父からすれば、文学に励む姿が弱々しく見えました。この親子関係は成長しても変わることはなく、残念ながら悪化の一途を辿ったのです。

武田信玄は、1536年(天文5年)に元服し、名を「武田晴信」と改名します。同じく1536年(天文5年)末に、父・武田信虎に従軍、佐久郡海ノ口城攻めで初陣を飾ります。

このとき、武田軍は大雪のためなかなか城を落とせず、撤退することが決定し、武田信玄は殿(しんがり:最後尾で追ってきた敵を防ぐ部隊)を任されました。味方の軍が撤退する中、武田信玄は「この状況なら敵側も油断しているのではないか?」と考え、海ノ口城へと引き返して見事城を陥落。敵将の首を持ち帰って献上したという逸話が残されています。

初陣から智将としての才覚を発揮したのですが、この作戦自体が父・武田信虎の命令に背く形で実行されたため、逆に大きな怒りを買うことになってしまったのです。

そして、ついに運命のときが訪れます。1541年(天文10年)、21歳になった武田信玄は大きな決断をしました。

父であり当主であった武田信虎に進言し、今川家に嫁いだ武田信虎の娘「定恵院」の様子を見に行くよう、駿河国(現在の静岡県中部)へ向かわせたのです。その間に、武田信虎が帰ってこられないように家臣達と共に国境を封鎖。武田信玄は父を追放する形で、甲斐武田氏第19代当主の座を手に入れました。

クーデターが引き起こされた理由には諸説ありますが、幼い頃から不仲であった父への積年の恨みがあったからではないかと考えられています。

戦の天才が大切にしていた哲学

家督を継いでからの武田信玄は、父親と同様に勢力拡大を目指していきます。生涯戦績は72戦49勝20分3敗と勝ち越していることから、戦における武田信玄の実力は相当なものでした。

武田信玄は、戦における自分なりの哲学を大切にしていました。そのひとつに、「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」という言葉があります。

「五分の勝利は今後に対して励みが生じ、七分は心に怠りが生じる、さらに完勝(十分)はおごりが生じる」、つまり武田信玄は常に慢心が生じないよう六~七分目の勝利を目標にしていたのです。

完膚なきまでに叩き潰すような戦い方では、いずれ勝利がもたらす冗長や慢心による油断が生じてしまうことになるので、常に自己を戒め、慎重に戦おうとする武田信玄の信条が見て取れます。

また武田信玄と言えば、「上杉謙信」とのライバル対決とも言える合戦「川中島の戦い」が有名です。宿敵同士であった2人は、北信濃の支配権を巡って足掛け12年もの間争ったにもかかわらず、残念ながら勝敗はつきませんでした。

人生最大のライバルである上杉謙信も、さきほどの「五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」を聞いた際に、「いつも自分が武田信玄に及ばぬのはこうした部分なのだ」と口にしたと「名将言行録」に残されています。

戦国最強の武将と名高い武田信玄は、豪快なイメージとは裏腹に、戦においても常に冷静で、自己を戒める言葉を心に留め、決して油断しない人物だったのです。

己の死後まで心配していた

1559年(永禄2年)、出家し、名を武田晴信から武田信玄に改め、上杉謙信との戦いが一段落したあとは駿河へと攻め入りました。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で「今川義元」が戦死したことから、弱体化した今川家を攻めることにしたためです。

そして勢いを付けた武田信玄は、1572年(元亀3年)、京へ上洛するため進軍。三方原の戦いでも徳川軍を圧倒します。

しかしその後、武田信玄の持病が悪化。1573年(元亀4年)、甲斐へ引き返す途中に53歳で亡くなりました。

死ぬ直前に武田信玄が残したとされる遺言には、自分の死を3年間は隠すこと、京都の入り口である瀬田の大橋に、武田の旗を掲げることの2つがあったと言われています。

自分が死んだことを隠すことで周囲からの攻撃を避け、新たな体制を整えて欲しいと願っていたのです。

しかし、武田信玄の死はすぐに知られてしまったと言われています。自分の死さえも戦略のひとつとして考えていた武田信玄は、最後まで頭脳派の戦国武将でした。

知的で慎重派だった智将・武田信玄

168_武田信玄の旗印
風林火山と書かれた旗

武田信玄と言えば、「風林火山」と書かれた軍旗をなびかせながら騎馬軍団と共に勝利を収め続けた豪快な人物だと思われがちですが、実際は、幼い頃から神童と言われるほど学問に明るい子どもでした。

そのため、多くの書物から得た知識を駆使して緻密な戦略を立て、敵を倒すことを得意としていたのです。

慢心から油断が生じることを恐れ、常に自分を律していた武田信玄ですが、晩年は病に勝てず志半ばで生涯を終えています。最期の言葉でも自分の死を隠し、国を守って欲しいと、死ぬときまで戦略を立てることを忘れませんでした。

武田信玄は、意外にも知的で慎重派の戦国武将だったのです。

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