有名な浮世絵師 - 刀剣ワールド
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「浮世絵」は、日本を代表する美術ジャンルのひとつであり、特に著名な浮世絵師は国内のみならず、「ホクサイ」、「ヒロシゲ」など海外でもその名は知られています。一方で、浮世絵師が「ゴッホ」や「ピカソ」といった芸術家とは一線を画す存在であることは、広く知られているとは言えないかもしれません。
江戸時代、浮世絵を一般庶民の身近な美術品として普及させたのは、現在の印刷にあたる「木版画」でした。浮世絵版画の制作は、浮世絵師(絵師)だけでなく、作品を企画する「版元」(はんもと)や版木を彫る「彫師」(ほりし)、和紙に摺る「摺師」(すりし)が密接にかかわるチームワークだったのです。つまり、浮世絵師は芸術家と言うよりも職人と呼ぶべきプロフェッショナルでした。そんな浮世絵師の中から、多大な功績を残した著名人をご紹介します。
歴史に残る浮世絵界の巨星達
菱川師宣
浮世絵というジャンルを確立した立役者
菱川師宣は、江戸時代初期に活躍した絵師で、はじめは古典や物語など版本(木版で印刷された本)の挿絵を描いていました。
この、挿絵に過ぎなかった浮世絵版画を、独立した1枚の絵画作品にまで高め、ひとつのジャンルとして確立したのが菱川師宣だったのです。

菱川師宣と言えば、代表作として「見返り美人図」がよく知られています。しかし、この作品は、実は版画ではなく「肉筆画」(にくひつが)の浮世絵。肉筆画とは、一般的な絵画と同じく、絵師自身が筆で描いた作品で、世界に1枚しかなく、それゆえに人気絵師の肉筆画はたいへん高価でした。
庶民にとっては手の届かない肉筆画の浮世絵。菱川師宣は挿絵画家であった経験を活かし、挿絵として表現されていた木版画を1枚の絵画として販売することを考案します。
木版画では、最初に「一杯」という単位で表される200枚を「初摺」(しょずり)として発売。作品の企画者であり責任者でもある版元が売れ行きを見て、人気が高いと判断したら、さらに増刷して販売しました。
木版画の浮世絵はこのように大量生産が可能であったため、1枚の価格が安くなり、江戸庶民はこぞって買い求めたのです。
もし、菱川師宣が1枚絵の浮世絵というアイデアを思い付かなかったら、現代でも絶大な人気を誇る浮世絵の傑作は生まれなかった可能性もあります。浮世絵の世界に刻まれた菱川師宣の功績は計り知れません。
葛飾北斎
暮らしには頓着しなかった世界的偉才
富嶽三十六景や「北斎漫画」などの傑作があり、世界的にも著名な葛飾北斎。江戸時代中期の1760年(宝暦10年)に生を受け、若い頃から精力的に活動し、生涯に木版画と肉筆画の浮世絵作品を30,000点以上創作しました。
葛飾北斎の浮世絵師としての地位と名声は、富嶽三十六景の発表により不動のものとなり、その傑出した芸術性は、遠くヨーロッパの「フィンセント・ファン・ゴッホ」など、印象派の画家や工芸家、音楽家にまで影響を与えています。
ところが、それほどの偉才でありながら、葛飾北斎は自身の生活にはまるで無頓着。毎日の食事もとなりの居酒屋などから取り寄せて、包んであった竹皮や箱のまま食べては、ごみはそのまま散らかし放題でした。
後年、一緒に暮らして浮世絵制作に励んでいた娘の「葛飾応為」(かつしかおうい)こと「お栄」もまた家事などしなかったことから、部屋が散らかり続けていよいよ住めなくなると引越ししたと言われています。その引越し回数は生涯で93回。どんな理由があったのか1日に3回転居したこともあるという、引越しのエキスパートでした。
誰もが知る名作中の名作「富嶽三十六景」

人間的にも興味の尽きない葛飾北斎の代表作は、やはり富士図版画集である富嶽三十六景ではないでしょうか。
富嶽三十六景は、1831~1834年(天保2~5年)に刊行された全46図の大判錦絵です。
富士山をテーマとした実在の風景と言うよりは、葛飾北斎の想像力が勝った独特な世界観が大好評を得て、全36図の予定が10図追加され、全46図のシリーズとなりました。
葛飾北斎の代表作のひとつ、雲のたなびく青空に赤富士を描いた「凱風快晴」(がいふうかいせい)は、「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)、「山下白雨」(さんかはくう)と並び「三大役物」(さんだいやくもの)と呼ばれています。
富嶽三十六景では、当時、大量に輸入されていた化学染料の「ベロ藍」(プルシアン・ブルー)が使われていることが特徴で、濃い紺青がひときわ印象的です。
歌川広重
火消の家に生まれるも、浮世絵の世界へ
歌川広重は、1797年(寛政9年)に江戸の定火消(じょうびけし:幕府直轄の火消)の家に生まれました。
数え13歳のとき父親が隠居し、火消同心職を継ぎましたが、幼い頃から絵を描くことが好きだった歌川広重は、15歳になると浮世絵師の「歌川豊広」(うたがわとよひろ)に入門。火消同心職を後継者に譲るまでは、二足の草鞋を履くことになります。
浮世絵師としては、「役者絵」から始め、「美人画」も手掛けますが、やがて「風景画」へ力を注ぐことに。1833年(天保4年)、浮世絵版画の連作・東海道五十三次を発表すると、たちまち評判となり、風景画家としての名声を勝ち取りました。
風景画を中心に創作活動に打ち込んだ歌川広重ですが、描いたジャンルは多岐に亘り、挿絵まで含めると、生涯に20,000点にも及ぶ作品を残しています。
葛飾北斎と同様に、歌川広重もまた、西洋の画家達に多大な影響を与えました。
人々の旅心を誘う「東海道五十三次」

歌川広重と聞いて、真っ先に思い浮かぶのが東海道五十三次の浮世絵です。
東海道は、「徳川家康」の命により、江戸と京都を結ぶ重要な街道として整備されました。街道に沿って、食事や宿泊所を提供する宿場が53あることから、東海道五十三次と呼ばれているのです。
バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド浮世絵」でも、宿場数の53作品に加え、出発地の日本橋と到着地の京師(けいし:現在の京都府)を含む全55枚をご覧頂けます。
出発地の日本橋を描いた「朝之景」(あさのけい)では、参勤交代の大名行列が朝早くに日本橋を渡り、江戸から出発する様子を描写。その左手前には、これから行商に向かうのでしょうか、天秤棒で魚を担いだ一団が見えます。1日のはじまりにふさわしい、人々の活気や生活感まで伝わってくる名作です。
気軽に旅などできなかった江戸庶民は、歌川広重の浮世絵を眺めて、一生に1度あるかないかという旅の思い出に浸ったり、まだ見ぬ土地の風景に思いを馳せたりして楽しみました。
歌川国芳
武者絵の国芳と呼ばれた鬼才は大の猫好き
江戸時代末期、「武者絵の国芳」と称されるほど、数多くの類まれな武者絵を手掛けた歌川国芳。その大胆な構図と斬新な発想力、圧倒的な画力は江戸の人々のみならず、現代人をも魅了し、高い人気を誇っています。
また、幕府の悪政を臆することなく批判する精神も持ち合わせ、自らの作品に風刺を込めて描きました。これに江戸庶民は拍手喝采。歌川国芳の人気はとどまるところを知らなかったのです。
幕府にも媚びなかった歌川国芳は、無類の猫好きという一面も持っていました。常に数匹から十数匹の猫を飼い、懐(ふところ)に猫を抱いて創作活動にいそしんだという逸話もあるほどです。
猫好きなだけに猫を擬人化した作品も多く、活き活きとした猫の描写で世相を風刺するなど、現代につながる漫画表現のルーツの一端を見ることができます。
「為朝弓勢之図」に見る戦いの緊張感

名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」(メーハク)で観られる歌川国芳の武者絵の中から、「為朝弓勢之図」(ためともゆんぜいのず)をご紹介します。
「源為朝」(みなもとのためとも)は、皇位継承問題を巡って、1156年(保元元年)に起こった「保元の乱」に敗れ、伊豆大島(現在の東京都大島町)へ流されてしまいます。
ところが、身長2mを超える巨漢で気性の荒い源為朝は、乱暴狼藉を繰り返して伊豆諸島を支配下に治めたのです。
これを見かねた監視役の「工藤茂光」(くどうもちみつ/しげみつ)が大軍を率いて海から攻めよせると、源為朝は強弓を引いて矢を射掛け、軍船1艘を沈めてしまいました。
源為朝が弓を取って軍船を沈めたその瞬間を描いた本武者絵は、大きく渦を巻く水面や武者達の争いに驚いてか海へ飛び立つ鳥達の様子からも、ただならぬ緊迫感が伝わってくるようです。
この圧巻の迫力は、まさに歌川国芳の真骨頂。実物を目の前でご覧になることをおすすめします。
月岡芳年
衝撃的な無残絵でも知られる個性派
月岡芳年は、幕末から明治時代中期に活躍した浮世絵師です。
凄惨な場面を描いた、現代で言うスプラッター映画のような作品が有名になり、「血まみれ芳年」とあだ名されますが、実際には「歴史絵」や美人画、役者絵、「風俗画」など、多種多様なジャンルで才能を発揮しています。
なかでも、師匠である歌川国芳譲りの武者絵、「合戦絵」において、数多くの傑作を創作しました。一瞬の動きを切り取ったようなダイナミックな構図は、現代の漫画や劇画を彷彿とさせる独自性にあふれ、劇画の先駆者と評されているほどです。
月岡芳年の探究心は浮世絵の枠を超え、洋画の技法を取り入れるなどの研鑽(けんさん)を積み、明治時代中期の最も成功した浮世絵師となりました。
月岡芳年の教えを受けた弟子達は、日本画や洋画の世界へ活躍の場を広げていくこととなります。
観る者を圧する迫力「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」

「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」(ながしのかっせんやまがたさぶろうひょうえうちじにのず)は、1575年(天正3年)に「織田信長」・徳川家康連合軍と、「武田勝頼」(たけだかつより)率いる武田軍が戦った「長篠の戦い」の一瞬をとらえた作品です。
織田信長は、長篠設楽原(したらがはら:現在の愛知県新城市)に馬防柵を設置。鉄砲3,000丁を用意して武田軍を迎え撃ちました。
織田軍の新戦法「三段撃ち」の猛攻により、「武田四天王」のひとり「山県昌景」(やまがたまさかげ)が討死。さらに膨大な戦死者を出した武田軍は撤退を余儀なくされたのです。
本合戦浮世絵では、まさしく現代の漫画に通じる大迫力の構図が観る者を圧倒します。整然と並んで射撃を行う織田軍に対して、混乱に陥り、倒れて血を流す武田軍兵士の描写は、血まみれ芳年たる一面を垣間見るようです。
作品から射撃音や叫び声が聞こえてくるように感じるのは思い過ごしでしょうか。月岡芳年の力量には、ただ感嘆のため息を吐く他ありません。
浮世絵の作品は、液晶モニターを通しても十分美しく観ることができますが、本物を間近で鑑賞したときの感激はひとしおです。ぜひ、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」(メーハク)で、作品との出会いを楽しんでみましょう。
コメント
コメント一覧 (6)
あと「東海道五十三次」は実は「東海道五十七次」だったんだよ。これは資料にも残っていて、増やしたのは徳川家康だ。京都へのルートを整備するためだったらしく、「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「高麗橋宿」と関西方面に増やした。しかし三条河原で処刑などが相次いだことから追加した宿場は使われなくなって、今は東海道五十三次に落ち着いているらしい。
名古屋刀剣ワールドで拝見するのが楽しみです!
そして菱川師宣氏の作品だということを初めてしった(笑)
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