徳川斉昭

「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の父として知られる水戸藩の9代藩主です。「烈公」(れっこう)の諡号(しごう:死後に送られる名前)を持ち、徳川慶喜の人格形成に多大な影響を与えたと言われています。

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、俳優「竹中直人」(たけなかなおと)さんが熱演。徳川幕府の行く末を誰よりも考えていたため、やや苛烈な政治思想を持ち、やがて幕府からは遠ざけられるようになります。しかし将来を担う藩士の育成や、生活を支えてくれる領民に対しては真摯に向き合いました。徳川斉昭が当時の水戸藩の民からどのように慕われていたのかを、彼の半生と合わせて見ていきましょう。

部屋住みから兄の死を経て水戸藩主に就任

徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、1800年(寛政12年)、水戸藩(現在の茨城県)の7代藩主「徳川治紀」(とくがわはるとし)の三男として生まれました。

1816年(文化13年)に父・徳川治紀が亡くなると、長兄「徳川斉脩」(とくがわなりのぶ)が次代藩主に就任。他の兄弟姉妹は、有力大名や公家の養子、あるいは正室となり水戸家を出ていました。

その一方で、徳川斉昭は「部屋住み」(家督相続のない者が独立せずに実家に留まること)として水戸家で過ごします。この部屋住みの時代を、徳川斉昭は学業に費やしました。

藩主の弟として、徳川斉昭には「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)や「吉田令世」(よしだのりよ)といった水戸藩の優秀な学者が教育係となり、水戸藩独自の「水戸学」、儒教に基づいた倫理・政治、日本の歴史などを学んだのです。

水戸学は、2代目水戸藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに:別名・水戸光圀)が中国から取り入れた、朱子学の「主君(天皇)への絶対的な忠誠心を持つ」という思想を基盤にしています。

徳川光圀は「大日本史」と呼ばれる歴史書編纂などを始動した名君で、今日ではテレビドラマ「水戸黄門」の主人公としても非常に人気の高い人物です。

このとき学んだ水戸学や政治、社会に対する考え方が、のちに水戸藩9代藩主となる徳川斉昭の藩政改革に大いに活かされることになるのです。

もともと病気がちだった兄・徳川斉脩が、1828年(文政11年)に跡継ぎもなく死去。徳川斉脩の「弟の斉昭を養子にする」といった遺書があったことから、徳川斉昭は水戸藩9代藩主へと就任することになりました。徳川斉昭は、水戸藩の退廃した士風や領内の慢性的な貧困の改革に取り組んでいきます。

徳川家を支えた「徳川斉昭」についてご紹介します。
水戸藩をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

文武一致の水戸学をもとにした人材育成

多くの水戸藩士は、何世代にもわたって奢侈(しゃし:度を過ぎて贅沢なこと)の禁令を守っておらず、酒を飲んで喧嘩をする、俸給を遊郭や芝居に費やしてしまうなど、秩序の乱れた生活が横行していました。

それらを正し、理想的な家臣としてのあるべき姿をよみがえらせるために、徳川斉昭は水戸学の思想をもとにした「告志篇」(こくしへん)を著します。告志篇では、忠孝一致、奢侈の戒め、武士の心構えなどについて書かれました。

188_弘道館
弘道館

さらに徳川斉昭は、藩政を担う人材を育てるための藩校「弘道館」(こうどうかん:茨城県水戸市)を設立。武士としての忠義と、武芸、学問を修得する機会を提供します。能力を重視した人材登用を行い、水戸学の学者「藤田東湖」(ふじたとうこ)などを抜擢しました。

藤田東湖は、同じく水戸学者である父「藤田幽谷」(ふじたゆうこく)に学びます。藤田幽谷は、徳川光圀が開始した「大日本史」編纂事業を行う研究所「彰考館」(しょうこうかん)で編纂に携わった人物。

藤田東湖は父の思想を受け継ぎ、水戸学派の中心人物へとなっていきます。藤田東湖が、水戸学を下地にのちの倒幕思想となる「尊王攘夷論」を形成していったのです。

そんな弘道館の教育のなかで最も象徴的なものが、「追鳥狩」(おいとりがり)です。鳥を狩る猟のようですが、これは大規模な軍事訓練の場でもありました。

最初の追鳥狩が行われたのは、1840年(天保11年)のこと。「水戸城」(現在の茨城県水戸市)の南方、千束原(せんぞくはら)にて約3,000人の武士と約20,000人の足軽が参加して、たくさんの見物客の前に披露されました。

この場には、武蔵国から来ていた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の従兄「尾高惇忠」(おだかあつただ/じゅんちゅう)も見物していたと言います。

「青天を衝け」第1話にも、大砲が鳴り響く中、勇ましい武士の一団が馬を走らせるシーンが登場。このときの学びの感動を、尾高惇忠はのちに渋沢栄一に語ったと伝わります。

領内の民に向けた政策にも積極的だった

徳川斉昭は、人材育成などの藩政改革とは別に、農村改革も進めていました。改革の一環として、藤田東湖の主導のもと、田畑の面積、収量の調査などの検地が行われます。これによる税制の改革など、目に見えにくい部分にも手を入れていきました。

1833年から1837年の間に「天保の大飢饉」が東日本を襲った時期と重なり、改革を推し進めるのは困難を極めます。しかし根気よく続けた甲斐もあり、土地を多く持つ豪農、神職者らからの支持を固めることに成功。彼らの中には文字を読める知識者も多かったことから、改革の思想や意義を理解してくれたのです。

富裕層となる豪農からの理解は得られた一方で、一般的な農民からの支持はなく、農政改革を着手した1830年代頃から、領内の村人達が藩に訴えなどを起こしています。

徳川斉昭が農民の一揆などの騒動に過敏になったのは、1836年(天保7年)に起きた「甲斐郡内一揆」でした。天保年間は、江戸時代で農民一揆が最も多かった時期でしたが、甲斐郡内一揆は甲斐国全土を巻き込む大規模な一揆だったのです。

さらに大阪では「大塩平八郎の乱」が起きるなど、飢饉は多くの地域で様々な規模の騒動を起こしました。こうした騒動を解決すべく、江戸幕府の老中「水野忠邦」(みずのただくに)は「天保の改革」を打ち出します。

全国的な一揆が水戸藩にも影響することを懸念した徳川斉昭は、農民が困らないよう、飢えることのないよう思案し、飢餓を防ぐため水戸藩が持つ備蓄米を農民達に分配。これを天保年間の間ずっと続けたことで、領内で餓死者を出すことはありませんでした。

徳川斉昭の民を思う気持ちによって、藩内で百姓一揆が起こることなく、飢饉の多かった天保年間を乗り切り農民からの信頼を得ることにも成功したのです。

また民を慰安するため、藩校・弘道館と対をなす施設として、1842年(天保13年)、広大な庭園「偕楽園」(かいらくえん:茨城県水戸市)を作りました。江戸時代に作られた武家の庭園は、基本的に民に開放することはありませんでしたが、偕楽園は当初から開放することを意識して作られています。

このように民衆の出入りが自由なことから、明治維新後は日本初の「公園」に指定。さらに現在の偕楽園は、石川県の「兼六園」、岡山県の「後楽園」とならぶ「日本三名園」のひとつにも選ばれているのです。

偕楽園に入れる民衆のなかには、もちろん弘道館で学ぶ武士階級も含まれます。徳川斉昭は、弘道館での学びを「一張一弛」(いっちょういっし)と表現しました。武士達が勉学で「張り」詰めた心身を「弛める」ための場所としての意味合いも持っていたのです。

農人形と農民への感謝

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農人形

徳川斉昭が藩主となって規範としたのは、「愛民専一」(あいみんせんいつ)でした。これは徳川斉昭が尊敬した徳川光圀の政治に対する姿勢のひとつで、「民に対して思いやりのある政治を目指す」としたものです。前述の通り、徳川斉昭は大規模な農政改革を行うと共に、農民に対して並々ならぬ思いを寄せます。

そんな徳川斉昭の思いの現れが、「農人形」(のうにんぎょう)でした。食事の膳に乗る小さなこの人形は、農夫が笠を裏返しに持ち、その傍らに稲束が置かれています。

徳川斉昭は食事の際に、人形の笠に米粒を供えて食事を始めたとされているのです。武士の生活を支えているのは、風雨に負けず働く農民達のおかげだとして、農民に感謝する気持ちを持つように子供達にも教え諭したと言います。

大河ドラマ青天を衝くでも、徳川斉昭の子・徳川慶喜が「父の教え」として農人形に米粒をお供えするシーンが登場。農人形は、水戸藩独自の農本主義から生まれたとされ、全国的にもあまり例を見ない物です。食事の際に、作ってくれた米農家や恵みをもたらしてくれた自然に感謝をするのは、現代にも通じる大切な教えですね。

明治時代以降に、水戸の彫刻師がこの農人形彫りをはじめたことで、水戸の代表的な民芸品のひとつとなっています。木彫りや土製が主ですが、焼き物や青銅製などの種類もありました。現在も水戸の民芸品としてお土産物屋さんに並んでいるので、ぜひ水戸観光の際に探してみてはいかがでしょうか。

なお、徳川斉昭が使用した農人形は、偕楽園内にある「常磐神社」(茨城県水戸市常磐町)併設の「義烈館」にて展示。また同神社では、水戸藩を発展させた名君として、徳川光圀と徳川斉昭の両名が祀られています。

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