日本刀にまつわる落語のハナシ ~「小烏丸」が意外なモノに!?~

ここ数年、日本刀(刀剣)と同じくらい若い人たちのあいだでブームになっているのが、日本の伝統芸能のひとつである「落語」。落語と言えば、江戸時代の侍が出てくるイメージを持つ方も多いはず。侍と日本刀(刀剣)は、まさに「切っても切れない関係」にあるものですが、落語のお噺(はなし)では、どのような日本刀(刀剣)が出てくるのでしょうか。

落語では珍しい!?日本刀が主役の落語

年末に毎年行なわれている、ある落語会に出向いたところ、その年のテーマが「お侍さん」。でも、その日の高座でかけられたお噺の中で日本刀(刀剣)が大きく扱われたのは、4席中、たったの1席

それは、「牡丹灯籠」(ぼたんどうろう)という長編怪談噺の中の導入部分である、「発端」(ほったん)というお噺でした。ある若い旗本(はたもと)が、刀剣商で日本刀(刀剣)を吟味していると、通りすがりの酔っ払いに絡まれたため、値引き交渉中の日本刀(刀剣)でその酔っ払いを切りつけてしまう……という内容で、別名「刀屋」というタイトルでも知られています。

侍が日本刀(刀剣)を鞘(さや)からサッと引き抜き、酔っ払いに向かって勢いよく日本刀(刀剣)を振り下ろすシーンは、どこか不気味で恐怖さえ覚えました。そんな風に感じたのは、私たちが「武器」としての日本刀(刀剣)に抱いているイメージそのものだったのかもしれません。

このように、落語のお噺の中で日本刀(刀剣)が主役になっている物は、他にどのような物があるのでしょうか。気になって調べてみたところ、日本刀(刀剣)が主題となっているようなお噺はあまり見つけられませんでした

それもそのはず、例えば舞台が町人たちの住む長屋であったり、「時そば」や「まんじゅうこわい」など、庶民にとって日常的な食べ物を題材にしていたりと、落語は江戸の庶民が主役となる娯楽です。

また、武士には町民に無礼を働かれた場合などに、自身が腰に差している日本刀(刀剣)をもって処罰することのできる「切り捨て御免」(きりすてごめん)の特権がありますが、これは武士にとって命がけの行為でした。

と言うのも、切り捨て御免を行なうだけの正当な理由があったことを証明しなければならず、これが認められないと、その武士は改易(かいえき:武士の身分を剥奪し、領地などを没収する刑罰)や切腹、最悪の場合には斬首刑も免れなかったのです。

たいていの場合は、武士側に何らかの処罰が下されていたため、お上公認の「辻斬り」(つじぎり)とも言える切り捨て御免は、時代劇などではよく見かけますが、実際にはあまり行なわれていなかったと伝えられています。

切り捨て御免

切り捨て御免

こういったことから、江戸の庶民の暮らしを描いた落語の世界に日本刀(刀剣)が主役となって登場していないことは、ごく自然なことであったのかもしれません。

そんな中、日本刀(刀剣)好きの方なら1度は耳にしたことのある名刀、あるいは刀工の名前がタイトルに盛り込まれたお噺を2つ発見しました。そのうちのひとつは、「粟田口霑笛竹」(あわたぐちしめすふえだけ)

「粟田口」と言えば、鎌倉時代前期から中期にかけて、京都で活躍した刀工の一派。このお噺の中では、粟田口6人兄弟の6男で、いわゆる「天下五剣」にも数えられる「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)を作刀した名工「粟田口国綱」の日本刀(刀剣)が出てきます。襲われた侍に粟田口国綱を奪われた刀屋の番頭が、その行方を求めて奮闘するというお噺です。

そしてもうひとつは、平安時代に作刀されたと伝えられ、現在では皇室の所有品である「御物」(ぎょぶつ)として宮内庁に所蔵されている「小烏丸」(こがらすまる)。どことなく可愛らしい雰囲気がある名前ですが、このお噺では、意外な形で「サゲ」(笑いとなる結末、いわゆるオチのこと)に使われていました。その内容とは……?

江戸落語の小烏丸は、上方では別タイトルに!?

小烏丸のお噺の舞台は、江戸の日本橋にある大きな質屋の「伊勢屋」(いせや)。ここの主人「幸右衛門」(こうえもん)は、大変人柄が良く、周りからは「仏の幸右衛門」と呼ばれていました。妻に先立たれていましたが後妻ももらわず、娘の「お照」(おてる)と仲睦まじく暮らしています。

しかし、世話を熱心に焼いてくれていた女中「お梶」(おかじ)と、ひょんなことから再婚することに。ところがこのお梶、結婚した途端、ろくに家事もせず昼間から酒浸りの生活を送るようになったのです。さらにお梶には、鍼医の「定安」(ていあん)と何やら密通しているとの噂も……。

それに気付かなかったのは幸右衛門のみで、お照と出入りの鳶頭(とびがしら)「勝五郎」(かつごろう)が、定安を何とか追い出そうと一計を案じます

娘のお照と勝五郎が立てた作戦に用いられたのが小烏丸。隙を狙って定安を誘い出し、私と一緒に駆け落ちして欲しいと定安に伝えるお照。その条件として定安は、店の金100両と、蔵から小烏丸を持ち出して来て欲しいと、お照に頼むのです。この小烏丸は、平安時代中期の武将「平維茂」(たいらのこれもち)が、信濃国(しなののくに:現在の長野県)の戸隠山(とがくしやま)で鬼を切り殺したという伝説を持つ名刀。そして、それを抜くとカラスが群がってくると言います。

小烏丸

小烏丸

夜になり、家から逃げ出したお照と定安。しかし、その道中、飛鳥山(あすかやま)に差し掛かったあたりでお照は「どこでも好きなところへ行きなさい」と、金100両と小烏丸を手切れ金として定安に渡したのです。「何としてでも連れて行って、売り飛ばすでも何でもしてやる!」と激憤した定安がお照に襲い掛かろうとしたところに、割って入ったのが控えていた勝五郎。そこで定安が小烏丸を抜き放つと、集まってきたのはカラスではなく、なんとたくさんの雀たち。小烏丸を月の光にかざして見ると、それは小烏丸とは似ても似つかない、「竹光」(たけみつ)と呼ばれる偽物の日本刀(刀剣)だったのです。

定安が疑う余地もなく、竹で作られた模造刀である竹光を真剣である小烏丸だと思い込んでいたのは、逃げ出す前に鞘から抜いて1度も確認しなかったのか、それとも本物の日本刀(刀剣)と見紛うほどに、その竹光が精巧な作りであったのかが気になるところ。

「竹に雀」は、古くから縁起が良いとされている取り合わせで、家紋などにも用いられている物。実際に、仙台藩(せんだいはん:現在の宮城県仙台市)初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)も、この竹に雀の意匠を家紋として取り入れ、代々伊達家の定紋(じょうもん:家ごとに決められた紋。[表紋]とも)として使用しています。

何だか物騒にも思われるクライマックスのシーンが、どこかほんわかとしていて、クスっと笑えるサゲになっていますね。

ちなみに、江戸落語で小烏丸として演じられるこのお噺は、大阪を中心とした西の「上方落語」(かみがたらくご)では、竹光と題されます。この違いには、「粋」よりも「陽気」なことを好む関西の人の気質が表れているのかも?

竹光と小烏丸ってどんな日本刀?

小烏丸だと思っていた日本刀(刀剣)が竹光だったなんて、なかなか想像できないお噺ですが、落語の小烏丸をより楽しむために、ここからは、それぞれの日本刀(刀剣)の全貌についてお話します。

日本刀は日本刀でも切れない日本刀・竹光

竹光と聞くと、どこかの有名な刀工の名前のようにも思えますが、刀身が竹を削って作られた日本刀(刀剣)であることから付けられた名称。模造刀の一種であり、真剣に比べて重量が大変軽いため、現代では時代劇などお芝居でよく使われています。しかし、現代の竹光は材料が樫で、その表面にアルミ箔などが貼られている物がほとんどです。

竹光

竹光

ちなみに「平家物語」(へいけものがたり)では、「伊勢平氏」(いせへいし)で初めて内裏(だいり:宮城における天皇のプライベートスペース)への昇殿を許された「平忠盛」(たいらのただもり)が闇討ちを恐れ、帯刀禁止であった内裏の中で竹光を所持していたことが記されています。
また、本当に切れないことから、切れ味があまり良くない、粗悪な出来の日本刀(刀剣)を罵るときに用いられる名称でもあるのです。

平家の家宝として伝来した刀・小烏丸

この小烏丸は、「日本における刀工の始祖」とされる伝説の刀工「天国」(あまくに)の作。天国は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)在住で、奈良時代後期あるいは平安時代前期に作刀していたとの言い伝えがありますが、謎に包まれている部分が多く、天国の経歴については憶測の域を出ません。

小烏丸の伝承は、平安時代前期の「桓武天皇」(かんむてんのう)のもとに、熊野村(くまのむら:現在の和歌山県新宮市熊野地)から大和国への道案内のため、「八咫烏」(やたがらす/やたのがらす)と呼ばれる大きなカラスが「大神宮」(おおじんぐう:現在の伊勢神宮)から遣わされたことから始まります。

そのカラスが飛び立つとき、1振の刀が羽の中から出てきたことから小烏丸と名付けられ、それ以来、天皇家の守護刀として伝えられてきました。

八咫烏

八咫烏

そして、平安時代中期に勃発した「承平・天慶の乱」(じょうへい・てんぎょうのらん)において、「平将門」(たいらのまさかど)討伐の総司令官に将軍「平貞盛」(たいらのさだもり)が任じられた際に、この小烏丸がその証しの「節刀」(せっとう:遣唐使や出征する将軍などに、任命の印として天皇から下賜された刀)として「朱雀天皇」(すざくてんのう)より下賜されたのです。

これ以降、平家の家宝となった小烏丸でしたが、1185年(元暦2/寿永4年)、平家の政治勢力が滅亡することになった「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で、一族と共に消失したと思われていました。

しかし、1785年(天明5年)、「桓武平氏」(かんむへいし)の氏族である「伊勢氏」(いせし)の手に渡って保管されていたことが分かり、明治維新後には、対馬国(つしまのくに:現在の長崎県対馬市)の「宗氏」(そううじ)によって買い取られました。その後、1882年(明治15年)、「宗義達/重正」(そうよしあきら/しげまさ)伯爵より「明治天皇」に献上され、御物に列せられることになったのです。