陣羽織

戦国時代に華々しい活躍を見せた武将の中には、「前田慶次/利益」(まえだけいじ/とします)や「織田信長」、「伊達政宗」など、いわゆる「傾奇者」(かぶきもの)と称された人達がいました。武勇に優れていながらも、常軌を逸した振る舞いで目立っていた彼らが、自身の強烈な個性をアピールするために用いていたのが、奇抜なファッション。そのアイテムには、腰に差す日本刀(刀剣)や防具である甲冑(鎧兜)など、実際に合戦で身に着けていた武具や衣装が多くあります。その中でも、現代の感覚から見てもオシャレな物が豊富に揃っていたのが、「陣羽織」。

陣羽織とは、武将達が甲冑(鎧兜)の上に着ていた物で、防寒や防水、自身の威厳を示すのを目的に着用されていました。ここでは、武将達それぞれの好みや生き様までもが込められた、デザイン性の高い陣羽織の数々をご紹介します。

陣羽織の歴史~実用着からおしゃれ着へ~

陣羽織」(じんばおり)とは、その名称からも分かるように、武将が「陣中」(じんちゅう)、つまり合戦における陣営の中で着用していた羽織のこと

戦場で甲冑(鎧兜)の上から着る防寒着や雨具として使われた陣羽織が登場したのは、室町時代末期、あるいは安土桃山時代頃と言われています。

当初は、揉みこんでやわらかくした和紙に、油やコンニャク糊などを塗り、強度や防水性、そして防寒性を高めた物を生地に用いた「紙衣陣羽織」(かみこじんばおり)が主流となっていました。この紙衣陣羽織は、戦国時代以前、僧侶が冬の修行の際に着ていた衣服がベースとなっています。

そして、武将が着用した最古の紙衣陣羽織のひとつとして今なお残されているのが、「上杉謙信」所用の1領。和紙の加工に用いられた柿渋の薄褐色が、シンプルでありながら武士の豪壮さを感じさせるこの陣羽織は、安土桃山時代から上杉家に伝来しており、重要文化財にも指定されています。

紙衣陣羽織

紙衣陣羽織

戦場での動きが制限されないように、その機能性が重視されていた陣羽織。背中に深くスリットを入れて馬からの乗り降りをしやすくしたり、突然の敵襲にも即座に応戦できるように、袖を除いたりするなど、実用性に特化した工夫が様々に施されていました

ところが、武将達の天下争いが本格化してくると、機能性もさることながら、そのデザインにも各武将のこだわりが発揮されるようになります。威厳や風格を誇示するため、陣羽織のデザインは次第に豪華絢爛な物へと変化。そしてそれは、ある国々の文化から多大な影響を受けていたのです。

有名武将達による陣羽織の大人の着こなし

古代には中国など東洋文化の影響を受け、時代を経るにつれて日本独自の形式が発展していった甲冑(鎧兜)。そんな甲冑(鎧兜)とのコーディネイトを楽しむためなのか、武将達は、陣羽織にあえて異国風のデザインをあしらっていました。

豊臣秀吉」が着用していた「ビロードマント陣羽織」(名古屋市秀吉清正記念館蔵)や、ボタンで着脱が可能な南部家(なんぶけ)伝来の陣羽織「緋地羅紗合羽」(ひじらしゃかっぱ:もりおか歴史文化館蔵)などは、現代のコートやジャケットとしても着ることができそうなほどスタイリッシュ。

緋地羅紗合羽

緋地羅紗合羽

また、時代が進んで江戸時代に作られた「隅立四つ目紋絹陣羽織」(すみたてよつめもんきぬじんばおり:刀剣ワールド財団[東建コーポレーション株式会社]蔵)のように、両面仕立て、今で言う「リバーシブル」仕様の物なども見られたのです。

隅立四つ目紋絹陣羽織

隅立四つ目紋絹陣羽織

これらのように、それまでの日本の衣服になかった風変わりなデザインの陣羽織が出現した背景には、16世紀半ばから始まった「南蛮貿易」が関係しています。

南蛮貿易では、ポルトガルやスペインを中心としたヨーロッパ諸国より、鉄砲などの武器やキリスト教だけでなく、金平糖(こんぺいとう)やカステラといった食品、眼鏡や機械式時計など、現代の私達にとっての日常用品まで輸入されていました。ヨーロッパの服飾文化もまた、南蛮貿易を通じて日本にもたらされ、武将の陣羽織のデザインも、それらをお手本とするようになったのです。

例えば、現代の洋服には当たり前に使われている「ボタン留め」や「立て襟」、「曲線裁ち」といった裁縫の技法は、南蛮文化に触れたことにより、日本人が初めて習得したもの。

さらには、背面に家紋や図柄などを描くのには、布地を1度切り取り、その場所に別の布地を嵌めこむ「切嵌」(きりばめ)、いわゆるアップリケである「切付」(きりつけ)、刺繍など、高度な技術が駆使されていました。

また陣羽織では、その材質においても、南蛮貿易で日本に入ってきた珍しい物を多用しました。羊毛などを用いて表面を起毛させた、厚地の毛織物であるカラフルな「羅紗」(らしゃ)や、木綿の生地に、花、鳥獣、人物などを多色で染め出した「更紗」(さらさ)、また「ビロード」などです。

夏用の陣羽織には、庶民にも普及していた「麻」(あさ)が用いられることもありましたが、やはり大将クラスの武将は、高価な材質の生地で仕立てた陣羽織を身に纏い(まとい)、莫大な財力があることを示していました。

最先端のトレンドが散りばめられたファッションアイテムであった陣羽織は、武将達にとっては、一種のステータスシンボルでもあったのです。

奇抜なデザインの陣羽織コレクション4選

戦場での実用着から、ヨーロッパの文化や技術が輸入されてデザイン性が高められたことで、武将それぞれの個性や思想、美意識などが込められ、自分を表現するオシャレ着の要素も併せ持つようになった陣羽織。

戦場で指揮を執っていた武将達は、人の目を引き付けるため、大胆でユニークなデザインの陣羽織を身に着けていました。ここからは、乱世を駆け抜けた武将ならではの自由な感性と発想で作られた陣羽織をチェックしていきます。

揚羽蝶紋黒鳥毛陣羽織
(あげはちょうもんくろとりげじんばおり)
揚羽蝶紋黒鳥毛陣羽織

揚羽蝶紋黒鳥毛陣羽織

所用:織田信長/所蔵:東京国立博物館

上部は黒い鳥毛が植え付けられ、下部は裂地(きれじ)製の生地という、異素材ミックスの陣羽織。派手好みの織田信長らしく、下部には紅地に金糸などの多彩な色糸を惜しげもなく使って唐花文様が織り出され、斬新でありながらも、品格が漂う印象を受けます。

背中部分に白い鳥毛で描かれた蝶紋は、平氏が家紋に用いていたことで有名。当時、武家政権を源氏と平氏が交互に執るという「源平交代思想」が俗説としてあり、信長が蝶紋を用いたのは「源氏の流れを汲む室町幕府の足利氏の次に天下を奪取するのは織田家だ!」との意気込みの表れだと考えられているのです。

この陣羽織に配された蝶紋は、平氏の家紋のように羽を畳んで静止している「止め蝶」ではなく、両羽を大きく広げたデザインになっており、個性が強かった信長のオリジナリティを感じさせます。

鳥獣文様綴織陣羽織
(ちょうじゅうもんようつづれおりじんばおり)
鳥獣文様綴織陣羽織2

鳥獣文様綴織陣羽織

所用:豊臣秀吉/所蔵:高台寺

豊臣秀吉が所用していたこの陣羽織は、秀吉の正室であった「北政所」(きたのまんどころ:通称[ねね]または[おね])が、秀吉の菩提を弔うために建立した「高台寺」(こうだいじ)に伝来。

綴織」(つづれおり)という技法が用いられ、鹿やライオン、孔雀などの鳥獣の意匠が織り込まれている表地は、実はペルシャのカシャーン地方で作られた絨毯(じゅうたん)を裁断して仕立てています。その中でも、ライオンが獲物に襲いかかろうとしている様は、ペルシャの伝統的な文様です。

高級品であったペルシャ絨毯をためらうことなくカットし、金糸には、日本の織物には見られない本物の金を使用。贅を尽くして作られたこの陣羽織は、時の権力者であった秀吉であったからこそ、身に着けることが許された1領であったのではないでしょうか。

紫羅背板五色水玉文様陣羽織
(むらさきらせいたごしきみずたまもんようじんばおり)
紫羅背板五色水玉文様陣羽織

紫羅背板五色水玉文様陣羽織

所用:伊達政宗/所蔵:仙台市博物館

この陣羽織で一番に目を引くのが、何と言ってもポップな水玉文様。

紫の表地に、大小異なる青、赤、黄、緑、白の5色の水玉がバランス良く配置されているところからは、「伊達男」(だておとこ)の由来になったと言われる仙台藩(現在の宮城県仙台市)初代藩主・伊達政宗の抜群のセンスが窺えます。

ちなみに、この水玉はアップリケのように縫い付ける切付よりも高度な技術が必要である、丸い形に切り抜いた表地に別の布地を嵌め込んだ切嵌の技法が使われていることが特徴。背中部分には、金糸で伊達家の家紋である「竹に雀紋」が大きく刺繍されています。

素材の「羅背板」(らせいた:ポルトガル語[RAXETA]の当て字)は、羅紗よりも薄手で手触りも少し粗い毛織物の一種ですが、保温性に優れる丈夫な材質であり、冬の寒さが厳しい仙台で着るのにぴったり。

また、この陣羽織が収蔵されている「仙台市博物館」では、こちらの水玉文様をデザインのモチーフにしたハンカチや風呂敷、ミニクリアファイルなどのオリジナルグッズを展開しています。お気に入りを見つけて持ち歩けば、あなたも政宗のように、もっとオシャレになれるかも!?

猩々緋羅紗地違鎌文様陣羽織
(しょうじょうひらしゃじちがいかまもんようじんばおり)
猩々緋羅紗地違鎌文様陣羽織

猩々緋羅紗地違鎌文様陣羽織

所用:小早川秀秋/所蔵:東京国立博物館

豊臣秀吉の養子であった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が、「関ヶ原の戦い」において着用したと伝わる陣羽織。秀秋は、同合戦では西軍に属していましたが、途中で「徳川家康」側の東軍へ寝返り、それが合戦の勝敗を決する大きな要因となりました

表地に使われている素材は、南蛮貿易で輸入されて流行した、「猩々緋」(しょうじょうひ)と呼ばれる色の羅紗。「猩々」は中国の伝説上の動物で、それを題材にした能の演目もあり、猩々に扮する役者が真っ赤な衣装に身を包み、酒に浮かれつつ舞い謡う姿を演じている印象から、このような深紅色の形容に用いられているのです。

また、背面に大きく配された「違鎌」(ちがいかま)の文様は、小早川家の旗印に見られた意匠。鎌の柄の部分にある文様は、地の色が赤いこともあってキュートなハートに見えますが、実はこれ、古来日本における神社仏閣の建築装飾などに見られる「猪目」(いのめ)と呼ばれる文様。その名の通り、猪の目がモチーフとなっており、魔除けとして使われてきました。

さらに背裏には、青緑色の絹糸で大きな丸に「永」の字が刺繍されています。この陣羽織には、神のご利益を得て、戦場にあっても命を永らえたいという秀秋の願いが込められていたと推測できるのです。

ここまでご紹介した陣羽織を見ただけでも、そのデザインがいかに武将ごとに異なり、バラエティに富んだ物であったかが窺えます。

戦場で武将の自己を主張するだけでなく、場合によっては、その死に際を誇らしく飾る衣装でもあった陣羽織。だからこそ戦国武将達は、陣羽織のデザインを独創的な物にすることで、その個性を競い合っていたと言えます。

現代の私たちが服のコーディネイトを毎朝考えているように、戦場に向かう前の武将達も、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら、陣羽織と甲冑(鎧兜)とのコーディネイトを決めていたのかもしれませんね。