86_鳥取三十二万石お城まつり

「下にー、下に」の掛け声と共に、厳かに進む時代行列。町中に轟音が響く火縄銃鉄砲隊の演武。そんな時代絵巻を満喫できるお祭り「鳥取三十二万石お城まつり」が、2019年(令和元年)9月28日(土)と29日(日)の2日間に亘り開催されました。

1日目の初めは雨模様で天気が心配されましたが、時間が経つにつれて日も差し、お祭りは大盛り上がりに! 戦国時代、そして江戸時代の様子を現代によみがえらせたお祭りについて、「鳥取城」の歴史も含めてお伝えします。

1日目:時代行列

出陣式

2019年(令和元年)で、20回目の開催を迎えた「鳥取三十二万石お城まつり」。1日目の注目イベントは、江戸時代の大名行列を再現した「時代行列」です。

雨上がりの曇り空に負けないくらい、気合いの入った出陣式からスタート! 鳥取市内を流れる袋川の上に設けられた「きなんせ広場」に、因幡鳥取藩初代藩主「池田光仲」(いけだみつなか)と甲冑や羽織・袴を身にまとった武士達が集い、池田光仲の正室「茶々姫」(因幡姫)を乗せた輿や、姫に付き従う腰元(こしもと)達と共にずらりと並びます。

ちなみに、「きなんせ」とは、鳥取地方の方言で「きて下さい」という意味です。

出陣式では、伝統芸能の「麒麟獅子舞」(きりんじしまい)や、「奴踊り」(やっこおどり)が披露されました。

「奴」とは、参勤交代のときに雑務を担うお供のことで、「毛槍」(けやり:鞘を鳥の羽などで飾った)を掲げながら右へ左へ四股(しこ)を踏むように踊る様子はたいへんユーモラス。観客の拍手とシャッター音が鳴り響き、時代行列への期待が高まっていきました。

時代行列

参勤交代の大名行列は、きなんせ広場を出発して、まず智頭街道(ちずかいどう)を通り、鳥取駅へと向かいます。そこからUターンするように、今度は若桜街道(わかさかいどう)を通るルートです。

毛槍を掲げた奴衆を先頭に、池田光仲と武士の一団が続き、茶々姫を乗せた輿と、弓や槍を携えた甲冑姿の武士達も観えます。奴衆や武士達に扮する参加者は老若男女と様々。なかでも凛々しい子ども達の姿は、観客の注目を浴びていました。

86_時代行列

時代行列

行列は、「下にー、下に」の掛け声に合わせて、片足を半歩ずつ斜め前に出す独特の歩き方を保ちながら、ゆっくりと進んでいきます。商店街や大通りのビル群、そして行き交う車を背にしながら時代行列が行なわれる様子は、本当に江戸時代の人々がタイムスリップしてきたようです。

このミスマッチが、不思議な雰囲気を作り上げていました。行列の参加者は真剣な面持ちで歩んでいるものの、時折笑みがこぼれ、お祭りを楽しんでいる気持ちが伝わってきます。

時代行列には、事前に申込めば、一般の方も参加可能とのこと。「甲冑を身に付けて、武士気分を味わってみたい!」と思う方は、参加してみてはいかがでしょうか。

2日目:お城まつり

火縄銃鉄砲隊演武

2日目の目玉イベントは、何と言っても「備州岡山城鉄砲隊」による「火縄銃鉄砲隊演武」でしょう。

備州岡山城鉄砲隊とは、「藤岡流古式砲術」を継承する火縄銃の鉄砲隊で、1983年(昭和58年)に「日本甲冑武具研究保存会」から独立。各地のイベントで古式砲術の演武を披露するなど、精力的に活動しています。

岡山城鳥取城は、江戸時代に岡山城主と鳥取城主が入れ替わるように転封(てんぽう:幕府の命令で大名を他の領地へ移すこと)するなど、深い関係にあることから、鳥取三十二万石お城まつりでの演武が実現。毎年、観客からの好評を博しています。

火縄銃鉄砲隊演武の会場となったのは、鳥取城水堀跡に架かる擬宝珠橋(ぎぼしばし)。甲冑に身を包み、鉄砲を携えた備州岡山城鉄砲隊が、螺(つぶ/にし:巻貝の古名)の音を響かせながら登場。その背中には、岡山藩池田氏の家紋「備前蝶」(びぜんちょう)を染め抜いた旗指物が翻っています。

86_備州岡山城鉄砲隊

備州岡山城鉄砲隊

鉄砲隊が堀の方を向いて擬宝珠橋の上に立ち並ぶと、演武開始です。

采配を振る大将の「立放ち、一斉!」という号令と共に、鉄砲隊全員が一斉射撃。もちろん空砲ですが、轟音は鳥取城跡にまで轟き渡り、水堀跡の左右に陣取った観客から歓声が上がります。

続いて「膝台放ち 順射」(ひざだいはなち じゅんしゃ)。ひとりずつ順番に鉄砲を放ち、次の「立放ち つるべ撃ち」では、短い間隔で順に素早く撃っていきました。

「千鳥の構え 順射」の号令がかかると、立ったまま構える隊員と、片膝を付いて構える隊員がひとり置きに並び順に射撃

続いての「馬上筒」(ばじょうづつ)では、騎馬で用いる砲身の短い馬上筒を片手で構えて放ちます。ここでは騎馬ではなく立ち姿ですが、隊員それぞれが勇ましいポーズを決めていました。

大型の鉄砲を撃つ「三十匁 大筒」(さんじゅうもんめ おおづつ)では、鉄砲を両手で持ち、頭上に上げて構えます。ひときわ音も大きく、撃った反動で隊員がよろめくほどの威力です。次の「五十匁 大筒」は、まさに大砲の風格でした。

最後に、再び「立放ち、一斉!」の号令があり、鉄砲隊全員の射撃音が揃って、演武の終了となります。迫力満点の演武に、観客からの拍手も割れんばかりに打ち鳴らされました。

火縄銃鉄砲隊演武は、実際に足を運んで、間近で観ることをおすすめします!

火縄銃・短銃・大筒・和製西洋式銃写真
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃・短銃・大筒をご覧頂けます。

まんぷく戦村

演武の観覧で心を満たしたあとは、おなかを満たしたい! そこで、擬宝珠橋からすぐの久松公園へ。この会場には、特設ステージをはじめ、多数のブースが軒を連ね、観客がイベントや体験を楽しめるようになっています。

その中心を占めるのが「まんぷく戦村」です。「屋台村合戦」と銘打ち、地元鳥取県産の食材を活かした焼きそばやハンバーガーなどグルメのお店が並び、どれを選んだら良いのか迷ってしまうほど。話題のタピオカドリンクも人気を集めていました。

まんぷく戦村近くのブースでは、鳥取大学と鳥取環境大学の茶道部による野点(のだて)も行なわれ、おいしいお茶を味わうこともできます。

また、甲冑体験ができるブースもあり、戦国時代の武将さながらの姿でそぞろ歩くお客さんも! 鳥取城跡の石垣を背にすると、甲冑がよく似合います。

おなかを満たしたところで、この立派な石垣を持つ鳥取城跡を訪れてみることにしました。現在の鳥取城跡と、鳥取城にまつわる歴史についてご紹介しましょう。

籠城戦の舞台となった鳥取城

鳥取城は城郭の博物館

鳥取城は、因幡国邑美郡(現在の鳥取県鳥取市)に築かれた山城(やまじろ:険しい山を利用して建てられた城)で、別名は「久松山城」。のちに、麓へ平山城(ひらやまじろ:ゆるやかな丘陵に建てられた城)が並んで築かれるなど、1582年(天正10年)から1849年(嘉永2年)までのおよそ270年間に、段階的に整備されました。

そのため、時代ごとに変化する城郭造りの特色を見て取ることができ、「城郭の博物館」と呼ばれています。

86_鳥取城_巻石垣

天球丸跡の巻石垣

現在、鳥取城にはほぼ石垣しか残っていませんが、この石垣の規模と変化に富んだ姿は、目を見張るほどに圧巻。なかでも、石垣が半球形に積み上げられた「天球丸跡の巻石垣」(てんきゅうまるあとのまきいしがき)は、鳥取城にしかない大きな見どころのひとつです。

なお、「天球丸」という名前は、「関ヶ原の戦い」のあと、「徳川家康」から鳥取城を与えられて城主となった「池田長吉」(いけだながよし)の姉「天球院」が住んだことに由来。半球形の石垣があるから付けられた名称ではなかったのですね。

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語り継がれる「鳥取城の渇え殺し」

鳥取城_城跡

鳥取城

今では石垣のみを残し、鳥取市街地を静かに見守る鳥取城も、かつて痛ましい戦の舞台となりました。それは、「豊臣秀吉」が主君「織田信長」から、「毛利輝元」(もうりてるもと)の勢力圏である中国地方進攻を任じられたことに始まります。

豊臣秀吉は、毛利氏攻略の足掛かりとして、1580年(天正8年)に第1次鳥取城攻めを開始。3ヵ月の籠城戦の末、当時の鳥取城主「山名豊国」(やまなとよくに)は、単身で豊臣秀吉に和議(和睦のための協議)を持ちかけて降伏します。

しかし、「森下道誉」(もりしたどうよ)や「中村春続」(なかむらはるつぐ)ら残された家臣達は、続けて毛利氏へ従属することを選び、山名豊国を鳥取城から追放。1581年(天正9年)には毛利氏の重臣であった「吉川経家」(きっかわつねいえ)を城主に迎えました。

これにより、豊臣秀吉は2度目の鳥取城攻略を決定。鳥取城主の吉川経家は、籠城戦に備えて約1,400人の兵と家臣で城の防備を固めます。

ところが、そのときすでに豊臣秀吉は、若狭国(現在の福井県南部)の商人を因幡国に送り込み、米を約2倍の高値で買い占めさせると共に、鳥取城近くに暮らす農民ら約2,000人を城へ逃げ込むよう追い立てました。これで鳥取城に籠もる人数は2倍以上に膨れ上がったことになります。

さらに豊臣秀吉は、船団を出して海や川から毛利氏が兵糧を運びこむのを阻止。そして20,000人の兵で鳥取城を取り囲み、猫の子1匹通さない包囲網を敷いたのです。

当時、鳥取城内の兵糧は1ヵ月分の備蓄しかなかったと言われ、籠城が3ヵ月も続いた頃には、城内の草木や家畜、果ては戦に欠かせない軍馬まで食べ尽くし、4ヵ月も経つと餓死する者が続出。その状況はまさに地獄絵図だったと伝えられています。

鳥取城主の吉川経家にとって、もはや猶予はありませんでした。吉川経家は、豊臣秀吉に対して、自ら切腹する代わりに城兵と農民は助けてほしいと申し入れます。

豊臣秀吉は、切腹するのは森下道誉と中村春続のみでよく、吉川経家には敬意を表して帰還させると伝えました。しかし、吉川経家はこれを拒否。家臣の森下道誉と中村春続共々自害して果てるのです。

自害ののち、吉川経家の首は豊臣秀吉に届けられ、豊臣秀吉は「哀れなる義士かな」と悼んで涙したと伝えられています。その後、吉川経家の首は安土城(現在の滋賀県近江八幡市)にいる織田信長のもとへ送られ、丁重に葬られたということです。

鳥取城へ城主として入るとき、吉川経家は自らの首桶を用意していました。それほどの覚悟を持って鳥取城を守った吉川経家は、鳥取の人々から慕われており、現在、その像が鳥取城跡を背景に、敵軍を見据えるような勇ましい姿で立っています。

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三十二万石の城へ

悲劇の舞台となった鳥取城は、関が原の戦いののち、池田長吉が6万石で入封(にゅうほう:大名が領地に入ること)。池田氏は鳥取城を近世の城郭へと改修していきます。

1617年(元和3年)、「池田光政」(いけだみつまさ)が因幡国、伯耆国(現在の鳥取県中西部)合わせて32万5,000石の大封(たいほう:大きな領地を与えること)で入ると、鳥取城も大大名の居城にふさわしい規模へと拡大されました。城下町鳥取の整備を行なったのも池田光政です。

こうして乱世を生き抜いた鳥取城でしたが、明治時代になると、ほとんどの建物が解体されてしまいました

そこで地元では、鳥取城の復元を目指して、2000年(平成12年)から鳥取三十二万石お城まつりを開催し、お祭りでの収益金の一部を鳥取市に寄贈しています。鳥取城を愛する人々の気持ちが込められたお祭りと言えるのです。

【関連サイト】
甲冑 基本解説 城郭 岡山城

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