明智光秀の刀剣とは

多くの武将達が天下を目指し、群雄割拠した「戦国時代」。自国の領土を守り、そして領土を増やすために幾度も戦をして刀剣を振るいます。そんな武将達にとっての刀剣は、戦道具として自身を守る重要な武器でした。肌身離さず持ち続けるからこそ、こだわりを持ってあつらえ、手入れをし、大切に扱います。

今回は、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公「明智光秀」の刀剣についてご紹介したいと思います。

明智光秀とはどんな人物だったのか

皆さんがよく知る「明智光秀」と言えば、やはり「織田信長」を討った「本能寺の変」が有名ではないでしょうか。

本能寺の変は、天下取り目前とされていた織田信長を討った、日本史上最大のクーデターとしても有名な事件です。

明智光秀は、美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれ、その地を治めていた守護大名・土岐氏の分家出身と言われています。しかし、家系図にも名前はなく、土岐氏であると明確にする史料は今のところ見付かっていません。

明智光秀は、土岐氏に代わって美濃を治めていた武将「斎藤道三」(さいとうどうさん)に仕えるようになります。この斎藤道三と息子の「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)とが対立し、1556年(弘治2年)、「長良川の戦い」が開戦。この戦で多くの親族を亡くし、明智一族は離散します。

浪人となった明智光秀は、一族の伝手をたどって室町幕府・14代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕官。さらに明智光秀は、主君を変え、越前国(現在の福井県)の朝倉家に身を寄せます。

明智光秀は、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)に鉄砲の腕と明晰な頭脳を気に入られ、軍師として仕えることになりました。

そこへ、出家していた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が次期将軍を狙い、その後ろ盾として朝倉家に近付きます。明智光秀は、明晰な頭脳を買われ足利義昭の近習として抜擢。同じく有力大名として力を付けていた織田信長に足利義昭が接触し、連絡係として明智光秀は織田信長と出会います。

長篠の戦い

長篠の戦い

1570年(元亀元年)の「金ヶ崎の戦い」で、織田信長軍と「浅井長政」(あざいながまさ)・朝倉義景両軍と対立。明智光秀は、織田信長軍として奮戦し、戦の功労として正式に織田家の家臣に認められ、居城「坂本城」(現在の滋賀県大津市)を拝領しました。

その後も明智光秀は、「長篠の戦い」、「天王寺の戦い」、「有岡の戦い」など、多くの戦に参加して功績を挙げていったのです。

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脇差 無銘 貞宗(切羽貞宗) 

「切羽貞宗」(きりはさだむね)の作者は「貞宗」。作られたのは南北朝時代です。刃長は1尺5寸(約31.8cm、全長は42cm)の直刃

造込は切刃造りで、腰樋(こしび)に彫師「理忠寿斎」による素剣と梵字が彫られていました。江戸時代に編纂された名物刀剣本、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも記載されている名刀。

1936年(昭和11年)に重要文化財に指定され、現在は「香川県立ミュージアム」に所蔵されています。

100_香川県立ミュージアム

香川県立ミュージアム

貞宗は、相模国(現在の神奈川県)に伝わる「相州伝」を確立させた「正宗」の弟子で、その作風をより深く継承した人物。

貞宗の刀剣は「名物」と称される作品も数多く、現存作品のうち4振が国宝、11振が重要文化財に指定されており、刀剣ファン達を魅了してやまない刀工のひとりです。

明智光秀と切羽貞宗の逸話

切羽貞宗を最初に手にしていたのは、明智光秀だと言われています。その次が、戦国武将「細川忠興」(ほそかわただおき)。

細川忠興は、室町幕府・足利将軍家に仕えていた大名で、足利義昭が将軍になるために助けを求めたのが、当時、明智光秀が仕えていた越中国(現在の富山県)の朝倉義景でした。

頭脳明晰で高い外交力を持った明智光秀は、以降、足利将軍家と織田信長など、有力な大名達との間を取り持つ連絡係として地位を高めていきます。明智光秀の助力もあり、無事、足利義昭は15代将軍へと就くことができました。

切羽貞宗は、どの年代で明智光秀の手を離れたのかは定かではありません。細川忠興は明智光秀の娘婿。きっとこの2人も仲良く会話をし、ときにお酒を酌み交わすようなこともあったのではないでしょうか。決して諍いがあったり、奪われたりしたわけでなく、円満な譲渡が行なわれたと考えられます。

さらに切羽貞宗は、細川忠興から「豊臣秀吉」へと献上されました。切羽貞宗は、豊臣秀吉が蒐集した愛刀として、絵図や押形の載った「太閤御物刀絵図」(たいこうぎょぶつかたなえず)にその姿が描かれています。

しかし、1615年(慶長20年)、「大坂夏の陣」で「大坂城」(のちの大阪城)に保管されていた切羽貞宗は、残念なことに焼失。焼けた大坂城内から取り出された切羽貞宗は、それは無残な状態だったことでしょう。

そこで、名刀が失われるのを嘆いた「徳川家康」が、切羽貞宗の刃を入れ直す再刃を行ないました。

焼き直された切羽貞宗には、焼けた痕跡として、(なかご:に収められている握りの部分。銘などが彫られる箇所)部分に熱で溶けた鎺(はばき:刀身と鍔をはめる金具)の金属が付着。大坂城がどれほどの勢いで燃えていたかが窺えるエピソードです。

再刃後は、2代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の所蔵となり、徳川秀忠没後は徳川御三家・初代水戸藩藩主の「徳川頼房」(とくがわよりふさ)に形見として譲渡。さらに、讃岐国(現在の香川県高松藩藩主「松平頼重」(まつだいらよりしげ)のもとに譲られ、現在は香川県立ミュージアムに保管されています。

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刀 無銘 伝近景(明智近景)

明智近景_備前長船・近影作_背景変更_修正

刀 無銘 伝近景(明智近景)

「明智近景」は、明智の姓を冠した日本刀。もとは、に金象嵌で「備州長船近景」、「暦応3年」、「明智日向守所持」があったと伝わることから、明智光秀の愛刀だと言われています。

刃長は2尺2寸5分(約68.2cm)、反り1.2cmです。現在は、個人所蔵となっています。

明智近景は、備前長船派の近景の作。備前国は鎌倉時代末期から続く刀工で、「光忠」からはじまる「長船鍛冶」の祖です。近景は、光忠の子「長光」の門下で、「備前國長船住近景」、「備前國長船近景」、「備州長船住近景」の3種類の銘を持ちます。

長船派は歴史ある刀派ですが、近景は備前の中でも「古備前」に分類される業物揃いです。

明智光秀と明智近景の逸話

明智光秀の子孫だと伝わる出羽国庄内藩(現在の山形県鶴岡市)、日向家に伝来。江戸時代末頃、日向家から次の所有者の手に渡ったときに、明智光秀の名前を嫌がり、近景の銘と明智光秀の所持銘を削り取ってしまったと言います。

江戸時代になる頃、明智光秀はすでに「裏切り者」の代名詞でした。江戸幕府開府の祖・徳川家康に大恩ある織田信長を討った人物。そんな刀剣を使うのは、縁起も悪いですし、何となくはばかられます。江戸幕府から「逆心あり」と疑われてしまう可能性もないとも言えません。おかしな疑いをかけられる前に削ってしまおうと考えるのは仕方のないことかもしれません。

ただ、刀剣の銘を削るのは、刀工の名前を取ってしまうことであり、刀剣本来の価値を無にする行為です。つまり、この明智近景は持ち主にそうまでして使いたい、帯刀したいと思わせるほど魅力ある刀剣だったとも言えます。

名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」でも、同じ備前長船近景作の刀剣とされる「備州長船住近景」を所有。ぜひ、ご覧になってみて下さい。

100_刀 備州長船近景

刀 銘 備州長船住近景

短刀 銘 江(倶利伽羅郷)

「倶利伽羅郷」(くりからごう)は、今は現存しない刀剣です。

郷義弘」(ごうのよしひろ)作とされ、刃長は8寸3分(約28.2cm)、平造りの短刀。銘は「江」と一字刻まれています。号の由来にもなっていますが、差裏(さしうら)の太いには、真の「倶利伽羅」(くりから:不動明王の変化した姿[倶利伽羅龍王]のこと)が彫られていました。

郷義弘は、南北朝時代の越中国新川松倉郷(現在の富山県)の出身で、相州の正宗に学び「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりにも選ばれています。

また、江戸時代に編纂された名刀リスト享保名物帳によると、郷義弘は、正宗・「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)と並んで「名物三作」と呼ばれ、大名達がこぞって手に入れたがるほどの品。

しかし、実は郷義弘作とはっきり銘の刻まれた作品はありません。郷義弘作とされ、国宝にもなっている「稲葉江」や、「富田江」も郷義弘の銘はなく、江戸時代の刀剣鑑定家「本阿弥」(ほんあみ)の鑑定によるものです。

ご紹介する倶利伽羅郷は、焼失し現存しませんが、郷義弘の銘が刻まれていたと言われる刀剣になります。

明智光秀と倶利伽羅郷の逸話

倶利伽羅郷は、越前国(現在の福井県)の戦国大名・朝倉家が所有した刀剣でした。

しかし、織田信長により朝倉家は滅亡に追い込まれ、朝倉家に伝来した多くの美術品も散逸。明智光秀が、落ち延びる朝倉家の御物奉行(おものぶぎょう:衣装や刀剣類を管理する役職)を生け捕った際、その人物が持っていた刀剣が倶利伽羅郷でした。

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で一時は天下を得たかのように見えた明智光秀ですが、6月13日の「山崎の戦い」で豊臣秀吉に敗れました。明智光秀は、山崎(現在の京都府長岡京市)の地に陣を張り、備中国「高松城の水攻め」の最中に和議を結び、急ぎ引き返してきた豊臣秀吉と戦います。

明智光秀は、居城である坂本城と、そこにいる妻子達の守りを「明智左馬助」(あけちさまのすけ:別名を明智秀満。明智光秀の女婿、または従弟)に任せます。このとき、倶利伽羅郷は坂本城に保管されていました。

坂本城が豊臣秀吉の軍に包囲されると、親族、妻子達は、もうこれまでと覚悟を決め自刃。明智左馬助は、城中に保管されていた名宝を失うわけにはいかないと、囲っていた豊臣秀吉軍の「堀秀政」(ほりひでまさ)の配下「堀監物」(ほりけんもつ)に宝物を引渡しました。

このとき引渡しをされたのは、「不動国行」(ふどうくにゆき)、「二字国俊」(にじくにとし)、「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)など、現在でも名刀と称される刀剣ばかりです。

堀監物が、高名な倶利伽羅郷がないことについて明智左馬助に尋ねると、このように答えたと言います。

「郷の刀は日向守(光秀)存生中常々命もろともと秘蔵致したる道具なれば、吾等腰にさし死出の山にて日向守へ相渡し申すべし」

意味は、「倶利伽羅郷は、主である明智光秀の大切な刀剣なので、私が腰に差して参ります。そして死んだ先で主にお返しします」です。

坂本城は、豊臣秀吉軍の放った炎に包まれ落城。倶利伽羅郷は、焼け落ちたあとを捜索しましたが、とうとう見付けることはかないませんでした。

豊臣秀吉に関する逸話などをまとめた江戸時代の書籍、「川角太閤記」(かわすみたいこうき)では、坂本城の井戸から見付かったと記載がありますが、「はや腐り其形も不見分」との記述のみで仔細は分かりません。

郷義弘作は「郷とお化けは見たことがない」と言われるほど、銘のある作品は皆無。しかし、倶利伽羅郷には「江」の銘があったとされています。それだけになくなったとあれば、人々から惜しまれ、また川角太閤記のように想像力が働くのも無理からぬこと。名作は、常に話題が絶えないものです。

まとめ

明智光秀は、主人である織田信長を本能寺の変で討ったことで、裏切者だと現代に伝わっていますが、実は謎の多い人物です。織田信長の家臣となるまでは、明智光秀の足跡は判然としません。

しかし、戦道具や、芸術品として大名達が手にした刀剣は、巡った人物や場所、戦などの足跡を残します。明智光秀が所有したと言われる刀剣にも物語があり、主人の足跡も語ってくれているようにも感じ取れるのです。

現在、明智光秀を主人公にした大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されています。ぜひこの機会に、明智光秀が愛用した刀剣について鑑賞してみてはいかがでしょうか。

【関連サイト】
明智光秀 織田信長 斎藤道三 貞宗 正宗 郷義弘
名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」
国宝や重要文化財、重要美術品といった貴重な日本刀などがご覧頂けます。
刀剣・日本刀写真
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